目的の小学校にたどり着いた頃には、太陽も残光を残すのみとなっていた。
正門前でタクシーを降りたまさみを待っていたのは管理職風の男性。
彼はまさみの姿を認めると、まだ完全に降りきっていない青年を、校内へと引きずり込んだ。
有無を言わせぬ彼の行動に、大切な領収書をもらう暇さえない。
何度となく転びそうになりながら、襟首を捕まれた情けない姿のまま、まさみは校舎内へ姿を消す。
男性は額に浮かんだ玉のような汗を拭いもせず、歩みを止めることなく、
校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下へと出た。
廊下に伸びる2つの長い影。
乱れた靴音が辺りに響き渡る。長い廊下を通り抜け、2つ目の角を曲がると、ようやく男性は歩みを止めた。
引きずるように連れて来た青年刑事を、乱暴にその場に立たせる。
「向こうだよ。さっさと連れ出してくれ」
ようやく解放されたまさみは、乱れたスーツを軽く直し、泣き出す寸前の顔を引き締めた。
開けた視界に飛び込んで来たのは、いくつかの遊具。
うんていにジャングルジム、滑り台。それらがひとつに繋がり、恐竜を形作っている。
男性が顎で指し示した先には、恐竜の身体の部分を構成するジャングルジム。その天辺に、
問題の人物はいた。
まっすぐな黒髪を背中に流し、何をするでもなく、ただ座っている。
グラウンドの向こうに消える夕日を眺めているのだろうか。
男性教諭に押し出されるように、校舎から一歩、足を進める。
あまりに強引なやりように眉をしかめ、背後を振り返るが、相手は彼の感情など
お構いなしである。せっつくように何度も顎で遊具を指し示し、青年刑事をその場から追い払う。
まさみは抗議の声をあげるのをやめ、問題の人物に向かって歩き出した。
未だ覚悟はできていなかったけれど……。
サクサク。
土を踏む音が、静まり返った校庭に小さく響く。
意外なことに、布が擦れあう小さな音にも反応するはずの人物はぴくりとも動かない。
彼女にしては珍しいことだった。
生温かい風にのって、微かな歌声が流れてくるため、寝ているわけでもないと分かる。
今の彼女の心を占めるモノに思い至って、まさみの気持ちはますます重く沈む。
今の自分には慰めるための適当な言葉を知らない。逆に怒らせてしまうだけなのだと、
簡単に予想できる結果に、足が止まりかける。
とたんに感じる背中の視線に、まさみは深く溜息を吐き出しつつも、
結局少女のもとに向かうしかなかった。
彼女との距離が2メートル、1メートル、50センチと徐々に縮まっていくが、気付かない。
彼女の常とは違う反応に、ますます心が重くなる。
心と比例して重くなる身体を引きずる様に、まさみは鉄の遊具に足をかけた。
ゆっくりと時間をかけて登りきる。頂上にたどり着いたところで、
やっと少女が気配を察し、振り返った。
戦慄を覚えるほどの険しすぎる眼差しに、まさみは息をのみ、立ち尽くす。
が、近づいた人物がまさみだと認識すると、少女は刺すような気配を消し去った。あとかたもなく。
ほぅと安堵の息をついて、まさみは朱蘭の隣に並びかける。
「呼ばれたんだな」
投げかけられた言葉に、朱蘭の視線を追って男性に辿り着いたまさみは頷く。
簡単に経緯を説明すると、お節介といいたげに彼女の顔が歪んだ。
くるくると表情の変わる瞳が、時折哀しげに揺れる。
ふとした拍子に覗く後悔の色に、胸が締め付けられた。
誰もいない校庭。
ここに居る理由は別にない、と言いつつ、動く気配のない少女。
待っているのだろうと思った。親友を。
親友の姿をこの景色の中に求めている。
振り向いた際の一瞬みせた落胆の表情を、まさみは見逃していなかった。
無意識だったのかもしれない。まったくの無防備だったあの表情。
だから、尋ねた。尋ねることで彼女を傷つけることはわかっていたけれど……。
「待っているのか?」
誰を、とはあえて言わなかった。
朱蘭の瞳が見開かれる。しかし、それも一瞬のことで、きつめの顔立ちにはすぐに
表情の読めない仮面が張り付いた。
口元に浮かんだあいまいな笑み。泣いているのか、笑っているのか、中途半端に上げられた唇が
彼女の心のうちを表していた。
朱蘭の視線が逸らされる。
今どき珍しい染めていない黒髪が、動きにあわせ、揺れる。
「……何を?」
問い返された声に、感情は宿っていなかった。すべてを殺ぎ落とした平坦な声。
ここまで傷ついているのに。
なぜ、彼女を手放したのか。
どうして。
なじるような問いかけは、しかし喉の奥に張り付き、声にならなかった。
代わりに口をついて出たのは別の言葉だった。
情けないほどに震えた声。
振り返った朱蘭が、苦笑を浮かべるほどに、情けない表情をしていたのだろうか。
自己嫌悪に陥りかけるまさみの意識を、朱蘭の皮肉な笑みが現実に引き上げる。
お人よし。
声にならない声が少女の表情から聞こえた。
お人よし。
お節介。
そっぽを向いた背中が呟く。
逸らされる前に見つけた瞳の中に光った拒絶。
ほっといて欲しいという信号を発しているのは判っていた。
けれど、自分にだけにはすべての感情を吐露して欲しかった。誰にも心を見せず、
消化できぬままの思いを抱え込み、身動きがとれずにいる少女を、これ以上みることができなかった。いたたまれない。
ぶつけてくれた方が何倍もましだと、思った。
気持ちを爆発させてあげたいという思いが、彼の中で急速に膨れ上がる。
同時になぜ、彼女自身がここに居るのか、気付いて欲しいという気持ちもあった。
彼女は気付いていない。
もしかすると知っていて目を逸らしているだけなのかもしれない。
どちらにしても直視して欲しかった。彼女自身の気持ちを。
立っている場所がわからなければ、先に進むことも引き返すこともできない。
だから繰り返した。同じ問いを。
「待っているのか?」
弾かれたように少女の瞳がまさみを見返した。
逸らされていた眼差しがキッとつりあがり、まさみの目論見どおり、感情が表に出掛かった。
しかし、つっかかってくると身構えていたまさみの予想は裏切られた。
徐々に色を失う眼差し。蒼白になった顔のまま、少女は呟く。
「待つ理由なんて……ないよ」
精一杯の虚勢だと知れる態度だった。
何を待っていたのか、誰を待っていたのか、気付いた上で、彼女は否定する。
何かを、誰かを待つ理由も気持ちもこれっぽっちもないと。
淡々とした抑揚のない声であったのに、まさみには血を吐くような叫びに聴こえた。
すべての輪郭がぼやけ、暗闇に溶けていく中、お互いの顔さえも見えなくなりつつあった。
けれど、少女の哀しみは伝わってくる。切ないほど。
「暇つぶしをしていただけだよ」
これ以上話すことはないと言いた気に朱蘭は立ち上がると、遊具から飛び降りた。
「結城?」
少女の行動についていけず、まさみは数回瞬きを繰り返したあと、慌てて朱蘭の姿を目で追った。
グラウンドと校庭を区切る生垣横の芝生の上に、求める人影はあった。
力任せにパンツの埃を叩き、ジャケットを羽織る。
月明かりに照らされた横顔が、まさみの目に儚げに映った。
消えてしまいそうな雰囲気に、身体が動いた。
自分が何をしようとしているのか、わからないまま……。