気付いたときには、ジャングルジムを降り、走り出していた。
いつもなら、追いかけることはしない。
機嫌の悪い彼女に関わることほど恐ろしいものはないのだから。
触らぬ神に祟りなしと、見送るつもりだった。
けれど、向けられた背中が頼りなげに見えた。
消えてしまいそうな雰囲気に、動揺する。
強気で、勝気な少女は、支えなくても大丈夫だと思っていた。
ひとりで立っていられるはずだと、思っていた。
それなのに、この気持ちはなんなのだろう。
身体の奥から溢れてくる感情は。
守りたい。彼女を守りたい!
胸に強烈に刻まれた思いに、まさみは考える前に走り出していた。
追いついて、何をするつもりなのかまだ決めていない。ただ、守りたかった。
すでに太陽は住宅街の向こうにすっかり隠れてしまった。残像さえも見えない。
辺りをゆっくりと闇が支配し、小さな虫たちが、音楽を奏で始めていた。
グラウンドにはまさみと朱蘭以外の人影はなく、ふたりの足音だけが虫の音の合間に響く。
駆け出したまさみの歩調に合わせるように、少女の足が速くなる。
闇の中にぼんやりと浮かび上がる背中が近づくことを拒んでいたが、構わなかった。
追いついて、捕まえて、それから……。
あと3メートル。あと2メートル。あと数歩。
夢中で追いかけた背中に追いつく。
伸ばした手が、少女の細い腕に触れた。
細い、細すぎる腕。
掴んで……。
ふいに周囲の音がやんだ。
記憶が途切れる。
何をしたのか、認識できぬまま、彼は唐突に訪れた甘い香りに酔った。
自分を包む柑橘系の香りに身を任せ、まさみは唇に感じる温もりをむさぼる。
腕の中に感じる柔らかな感触。
すべてが心地よかった。
まだ、もう少し。
離れていきそうになるソレをむりやり引き寄せて、抱きしめる。
反発する力に、上回る力で押さえつけて、まさみは続けた。
ソレが何かわからないまま。
何度も何度も柔らかな感触を確かめた。

夢うつつのまさみを現実に引き戻したのは、空気を切り裂くように鳴り響く電子音だった。
耳障りな人工音に、いっきに覚醒へと引き上げられる。
唐突に視界が開け、静かな怒りの炎を燃やす冷ややかな瞳と至近距離でぶつかった。
見知った顔。いつも自分を振り回してくれる少女の。
何でこんなに近いんだ?
浮かんだ疑問は即座に封印される。本能的に疑問は抹消され、浮かんだ事実さえ残らない。
まさみは思考を停止した。
辿り着く結論がこの世の終わりのような怖さを誘う。
その中で、脳よりも一瞬早く反応した身体が、自分でも驚くような素早さで、朱蘭から離れた。
猛烈な勢いで襲ってくる後悔と恐怖の波に、状況を把握しないままに、まさみは少女を見下ろし、 そして知る。
視界に入った少女の唇。適度な厚みをもった形のよい唇に塗られた 鮮やかな深紅がほんの少し乱れていた。
蘇る感触。
甘く柔らかなものの正体に思い至り、顔が紅潮する。次いで、己が犯してしまった暴挙に 気付き、血の気が引いた。
津波のようにいっきに押し寄せてくる記憶が、まさみを慌てさせた。
条件反射的に謝罪の言葉が口をついて出る。
「あっ……ご……そんなつも……あっ……結城……その……ごめん」
ひっくり返った声が、妙な言葉を発した。
意味不明な言葉になってしまったのは、もつれた舌のせいともいえなかった。
辺りはいつの間にか昼間のように明るくなっていた。
おかげで相手の顔が見えすぎるほどにみえてしまう。
瞳に浮かんでいる炎を直視して、まさみは命の危機が迫っていることを確信する。
乙女の唇を奪ったのだ。半殺し、だけでは済まされないはず。
殺される。
冗談ではなく、本気で思った。
が……。
無意識に片膝をつき、土下座の姿勢に入っていたまさみを待っていたのは、予想外の反応だった。
突然の笑い声に、顔を上げる。
何が起こっているのか、まったく判らなかった。
彼女の感情の変化についていけない。
抱える痛みと、今のまさみの行為の衝撃の強さに、心が壊れてしまったのかと思った。
何がそんなに可笑しいのか、彼女は笑い続ける。
狂ってしまった少女に本能的な恐怖を覚え、思わず後ずさった。
守りたい思いは消えてはいないけれど。
どうすればいいのか判らず、立ち去ることもできず、まさみはその場に縫いとめられたように 中途半端な姿勢のまま、止まっていた。
いつの間にか彼を現実に引き戻してくれた携帯電話の着メロも止んでいる。
朱蘭の笑い声と、遠慮がちに響く虫の音が辺りに響いていた。
どこからともなく漂う食事の香りに、彼女を見つけてかなりの時間が経っていたことに気付いた。
そろそろ彼女を家に帰さなければ、と冷静な思考が徐々に戻り始める。
そのためには朱蘭を正気に戻さなくてはいけない。
さて、どうしよう。
ショック療法でもう一度キスをしたら戻るかもしれない……と不埒な思いに気を取られていたまさみは、 彼女の動きに気付くのが遅れた。
狂ったような笑い声が、いつの間にか止んでいた。
笑いを収め表情を戻した少女には、狂ったような様子はみられない。
狂ってなどいなかったのだとホッと胸を撫で下ろしたまさみの眼と、思いつめたような少女の 瞳が合った。
迷いが宿る瞳。何かを決意しながらも、決断を下すことに躊躇している光が何度も浮かんでは消える。
胸が痛む。朱蘭にそんな表情は似合わない。
翳りのない澄んだ瞳が彼女には一番似合う。強気で勝気な表情が似合う。
何よりも笑顔がよく似合うのに。
苦しげに顔を歪める少女の姿に、胸が締め付けられる。
近づいてくる少女は何かを決意し、彼に手を伸ばした。
何が起こるのか、わからないまま、まさみは反射的に身構える。
何が起こるにしても最低平手打ちは避けられないはず。
歯を食いしばり、衝撃に耐えようとしたまさみの考えはしかし、裏切られた。
伸ばされた両腕は、なぜかまさみの太い首に回される。
予想外の行動に、疑問符が駆け巡った。
身長差を埋めるように背伸びした少女の顔が、間近に迫り……。
再び訪れた温もりに、完全に思考が止まった。
視界を埋める少女の瞳には、優しい光が灯っている。
どうして……。
「……なぜ?……」
呆然と呟いた声に、朱蘭の呆れを含んだ笑みが返った。
密着する少女の身体が、まさみを混乱させた。
少女から漂う甘い香り。
居心地の悪さを覚え、目線をさげた瞬間、まさみの心臓が跳ね上がった。
眼に飛び込んできたのは、ふっくらとした胸の谷間。
ジャケットの胸元から見えるふくらみだった。
心臓の鼓動が早まる。
何がどうなっているのかわからないまま、呟くまさみに新たな混乱が襲った。
「キスぐらい、いつだってしてやる」
キスぐらい……
朱蘭の言葉に衝撃を覚える。
キスぐらい……キスぐらい……。
なぜ、自分がこんなにもショックを受けているのか、判らなかった。
あまりのショックに立ち直れず、続く彼女の言葉の深さに気付けない。
ようやく気付いたときには、彼女は晒したくないはずの本音を自分に曝け出していた。
言葉ではなく、にじみ出る感情で。
向けられる思いが辛かった。
交わされる口付けが、徐々に体温を失っていく。
彼女は言う。
大切な親友を見守って欲しいと。
幼い頃、守ると誓ったはずの決意。
けれど、もう彼女ではそれが果たせない。
どうして頑なにそう思い込んでいるのか判らなかったけれど。
目の前の少女は親友との別れを決意し、同じ役目をまさみに託した。
彼女に心を許してもらっていると嬉しかった。
が、その反面、彼女の抱える傷の深さに、哀しみが広がる。
太陽の下が似合うのは誰よりも君なのに……。
首を振る少女が痛ましい。
どうして、親友を失ってまでその世界にいることにこだわるのか。
まさみにはまったく判らない。
けれど、それが彼女の望みで、引き受けることができるのが自分しかいないというなら、 喜んで引き受けたかった。
本当は親友である少女ではなく、朱蘭自身を守りたかったけれど。
伸ばした腕はやんわりとした拒絶を受ける。
自分ではなく彼女(まりあ)を。
強く望んでいるたった一つの思いに、まさみは頷かざる得なかった。
彼女の心が楽になるのなら。
それで少しでも自分が役に立つのなら。
頷くまさみに、なぜか朱蘭の瞳に悔いるような光が揺らいだ。
声にならない「ごめん」の言葉。
それが何を意味するものなのか理解できぬまま、まさみは華奢な少女の腰に腕をまわした。
彼女の痛みが少しでも薄れるように。
まさみは最後にもう一度だけ、彼女にキスをねだった。
苦笑する表情にいつもの彼女らしさが戻る。
約束を果たすために交わされた口付けには、もとの温もりが戻っていた。

小説TOPへ 前へ 戻る


ということでのまさみちゃんバージョン書き終わりました。
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。
いかがでしたでしょうか?
そうそう、まさみちゃん、まだこの時点でも朱蘭への想いは無自覚です。
その上、まったくの一方通行の片思い。
どうなっていくんでしょう。このふたり……。