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私記:父の記録

琉大が燃えた日トップへ


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イントロダクション



 その日私は、窓の下を走りすぎる消防車のけたたましいサイレンの音に目を覚ました。

 1956年9月3日の朝である。

 昨夜は北部の村をまわって遅く帰り、大学食堂でソバを食べて北寮三階の部屋でひとりで寝ていた。大学は夏休み中で、ほとんどの学生は帰省していて、寮に残っている者は数少ない。

 男子寮は現在の県立芸大の場所にあり、私の部屋は南寮であったが、夏休み中(8月〜9月)は残留を届け出て北寮にまとめられていた。(寮名は公募によって、男子寮は南星寮、北辰寮、女子寮は瑞泉寮と名付けられていた。たしか平山良明君の応募が採用されたと思う。が、通常南寮、北寮、女子寮とよびならしていた。)
 大学は「事件」の最中にあった。「島ぐるみ」といわれた住民総決起の土地闘争の中で、学生の行動に対する米軍の圧力によってひき起こされた“学生処分問題”である。

 問題が発展しこじれることを極度に警戒していた大学当局は、学生の動きの封じ込めにかかっていて話し合いは進展せず硬直状態にあった。

 じっとしているわけにはいかず、各地を実情報告にまわろうということになり、私は北部の東、大宜味、国頭をまわって昨夜帰ったところだった。

 目は覚めたが頭が重い。少し疲れが残っていた。消防車は何台か通り過ぎて行った。近いようである。

 起き出して廊下に出てみた。琉大の方向から煙が上がっている。窓を開けて煙の出所をたしかめると図書館である。とたんに眠気が覚めた。駆けていく人、慌ただしい気配もみえた。

 琉大図書館は、志喜屋孝信氏(初代学長)の業績を顕彰して「志喜屋記念図書館」と名付けられていた。建設のときには資金づくりのため“宝くじ”が発売され、学生は一日休講でその売り出しにかり出されたことがある。私は同室の友人と二人でようやく一枚(100B円)を売った。そのとき一等に当選(100万B円)した人が宮古高校?の金城金蔵という教員でその名前からして話題になった。(当時の通貨は米軍票の「B円」で、1ドルは120B円、1B円=3日本円の比率であった。1958年に通貨はドルに切り替えられた。)

 開館したのは前年ではなかったか。龍樋の上方に位置していた。
 その図書館が燃えている。脱ぎっぱなしの服をひろいあげて着ると、わけもなく部屋をとび出していた。


 沖縄全島をゆるがした土地闘争、そのきっかけとなったのが「プライス勧告」であった。(その内容は後に)

 1956年6月9日、米下院軍事委員会でプライス分科委員会の、沖縄の軍用地問題に関する勧告が承認されたことが伝えられ、その概要が発表されるや沖縄の不満が一挙に爆発した。

 沖縄戦を経て、米軍の占領支配からこの方、その重圧でウッ積していたマグマがいきなり噴出したといえようか、疑いようもなく全住民の決起であった。

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