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私記:父の記録

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火種



 人間としての尊厳という。それが無視され生きていく上での基盤がおびやかされるとき人々は怒る。一斉に怒りがふき出すには、それに至るいきさつがある。

 (その経過についてすこしふれてみることにする)

 沖縄を占領した米軍は、まず好きなだけの軍用地を囲いこんでいた。1950年6月、朝鮮戦争の勃発にともない、出撃基地としての重要性が認識され、その機能強化がはかられていたが、1952年4月、対日平和条約の発効によって沖縄の施政権を確保したアメリカは、恒久的な基地建設にのり出した。

 1952年11月、米民政府は布令91号「軍用地の契約権について」を公布した。この布令によると、琉球政府行政主席は個々の土地所有者と契約を結び、これが成立すると琉球政府行政主席と米民政府との契約によって、その土地は自動的に米民政府にまた貸しされることになっていた。契約期間は1950年7月から20年間とされていた。

 この布令によって琉球政府法務局は、土地所有者との契約交渉をすすめたが、強制的で一方的な内容であったから、各地でほとんど地主から拒否された。

 契約交渉が失敗すると米民政府は、1953年12月、布告26号「軍用地域内における不動産の使用に対する補償」を公布した。

 これによって米民政府は、すでに使用していた土地は「黙契」によって米国が借地権を得たのだと宣言し、借地料を一方的に支払い、不服があれば米軍人・軍属だけで構成される琉球列島米国土地収用委員会に提訴することができる、とした。

 契約がなくても「黙契」として安い使用料を押しつけ、権利を横奪したわけである。

 占領下において勝手に囲いこまれた土地は強引に米軍用地とされたわけだが、こうした措置に対する不満が高まっている上に米軍は新たな土地収用を強行してきた。

 1953年4月、米民政府は布令109号「土地収用令」を公布した。

 先述の布令91号、布告26号は、すでに米軍が使用している土地に対する措置であったが、「土地収用令」は新規接収のためのものであった。

 この「土地収用令」によると、まず米軍が土地の収用告知書をその市町村あてに送り、これに対して土地所有者は30日以内に土地を譲渡するかどうかを回答しなければならない。30日を過ぎると米軍は収用宣言を行うことができ、土地は米軍のものとなる。

 占領下においてすきなだけ基地を囲ったはずであったが、なお新たに必要とする土地については、住民の生活や権利、その意志にかかわりなく米軍の都合に供する、というものであった。

 「土地収用令」が出されて一週間後、真和志の銘苅に収用告知が出され、30日の期限を待たずに、武装兵を出動させ、農地にブルトーザーを入れて住民の反対をおしきって強制収用した。

 国道58号線、上之屋のあたりから東の方に広がる開放地。現在那覇市の新都心計画がすすめられているところ、そのほぼ中心部あたりが銘苅。

 私の出身校である沖縄工業高校も当初、安謝の奥、銘苅に隣接する人家を離れた原っぱにあった。私はここで卒業した。近くに羽衣伝説の「銘苅ガー」があって、水道施設のない当時、その水を使っていた。

 92年の秋、同期生数人でその場所を訪ねてみたが、岩石のそそり立っていた丘は削りとられ、地形は一変し、学校のあった場所すら見当がつかない。わずかに目じるしになるのが「銘苅ガー」(これは残っている)であった。しかし、当時はこんこんと湧き出し、たっぷりあった水量も、周りの茂みが消え整地されたせいであろう、水の流れる勢いはなく、すっかりよどんだ泉に姿を変えていた。

 当時、いつもお腹をすかしていた寮生は、時々銘苅や上之屋の農家を訪ねては芋を買い空腹の足しにしていたものである。

 一帯が立ちのきになったその頃、工業高校も松川の現在地に移転した。

 53年7月、伊江島では土地とり上げに反対する住民のたたかいがはじまっていたし、同年12月には小禄の具志でも銘苅同様の強制収用が行われた。
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