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私記:父の記録

琉大が燃えた日トップへ


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入学の頃  私の琉大入学は1953年である。土地問題が方々で起こりつつある時期であるが、琉大でも一つの事件が起きていた。

 4人の学生が退学処分を受けるといういわゆる「第一次琉大事件」である。問題とされたこと、つまり「事件」の発端は前年度に起きたことであったが、「処分」をめぐって問題はなお継続していた。

 ごく普通の新入生の気分でいた私には、問題の経過がのみこめてなかったせいもあろうか、意識的にかかわりをもつでもなく、そのまわりをうろついていた。だからその当時から問題の所在を整理できたものではなく、不正確かもしれないけれども、その概要にふれてみる。

 処分の理由とされた主な問題のその一つは原爆展を無許可で開催したこと。

 当時琉大には「学生準則」というのがあって、すべての集会、掲示、出版等についてはあらかじめ大学当局の許可を必要としていた。(学生準則については後にふれることにする)許可を得ない行為は準則違反で処罰の対象となるというわけである。

 二つ目は、「燈火管制」の指示に従わなかったということである。

 戦時中よく経験したことで、ランプを黒いカバーですっぽり覆い、明かりが外にもれないようにする。それは空襲等、敵に標的を与えないよう夜間の攻撃に備えるというものであった。朝鮮戦争が始まって、沖縄がその出撃基地となっていたから、その報復の可能性に備えての訓練であったわけである。終わったと思った戦争であったが、まだその線上にあることを示していた。52年、「各家は燈火が外にもれないようにして、じっとしていること。車はライトを消して道路わきに停車すること」といった旨のチラシが配られ、ビックリしたことを憶えている。

 住民が明かりを消して家の中でじっとしているとき、米軍の家族は飛行場へ向かい飛行機で沖縄を脱出する訓練をしていたという。この状景は霜田正次氏の小説の題材にも採られている。(最近韓国でも同様な避難訓練をしていたもようをテレビニュースでみた)

 琉大の学寮では指定の日時に舎監が電源を切った。これに対して学生は、とんでもない訓練だとの意をこめて、ローソクを灯して抗議した。

 これらのことが問題となり、大学当局は4人の学生に対して「謹慎」の処分を下した。

 学生側は、当然の行為をしたまでのことであり、「処分」は不当だとしてその撤回を要求し、問題は続いていたのである。

 そしてその年(53年)のメーデーにおいて「処分問題」の不当を訴えた。

 その頃米軍は、メーデーについて「アカ」の集まりだとして極度に警戒していた。

 事件の翌年ではあるけれども、54年の4月に米民政府は「5月1日は共産党員の聖典の著者カール・マルクスの誕生日である。この日世界の共産党員は示威運動をして自由諸国国家の警察と政府を困らせるように要請されている。ゆえに共産党員でない人はその日の共産党の会合に参加すべきでない。……」という声明を発表している。

 集会場の周辺はCICがうろついているから、その頃の集会は夜間(顔がみられないよう)に開かれたものである。

 「メーデー」ということが、こうした社会的事情にあったということも、その背景をなしているかと思われる。53年のメーデーはものものしい警戒の下で開かれ、学生の提起を受けて、処分の撤回と学長の退陣要求が決議され、大学当局に手交された。

 大学側は、当の学生が謹慎中にありながら学内問題を対外にもち出し混乱を招いた、ということで退学処分としたのである。

 後に起る私自身とかかわる問題とも関連して思いおこされる事件ではあった。


 53年には文芸クラブが誕生した。上級(3年)に新川、松原がいて、ついで川満、岡本、松島、豊川が、そして新入生の喜舎場、嶺井が参加した。その年の7月には機関誌「琉大文学」を創刊している。10月には2号が出た。出版費用はすべてかけ廻って集めた広告費で充てられていた。

(「琉大文学」については、さまざまに論議されているので、その内容的な面についてはふれないことにする。)
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