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私記:父の記録

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土地を守る「四原則」 54年の年頭、1月7日に発表された一般教書でアイゼンハワー米大統領は「沖縄を無期限に管理する」と宣言。3月17日米民政府は、軍用地料の「一括払い」という米陸軍省の計画を発表した。

 後に住民の総反発をくうことになる「一括払い」とは、米軍が定めた年間借地料(地価の6%)の16・6年分、つまり地価相当額を一括して支払うことによって、永代借地権を設定しようというものである。

 これは長期の土地所有権を取得することによって、軍用地をめぐるトラブルを避けながら、安上がりに恒久的な基地維持をはかることを意図するものであった。(後のプライス特別分科委の報告の中でも「これは毎年支払われる借地料よりも米国にとって明らかにもっと経済的なものであろう」とのべていた。)

 住民にとってこの方式は、実質的な土地の買い上げを意味し、農民の生活手段を奪うものとして強く反発した。

 土地の新規接収が相つぐ中、地代の「一括払い」の方針が発表されるに至って土地問題は深刻の度を深めていった。

 軍用地主等の請願を受けた立法院は、米民政府発表の翌月の4月30日「軍用地処理に関する請願」を全会一致で採択、土地問題解決のための「四原則」を打ち出した。

 その四原則は
 一、アメリカ合衆国の土地の買い上げ、または永久使用、使用料の一括払いは絶対に行わないこと。

 二、現在使用中の土地については、適正にして完全な補償がなされること。使用料の決定は、住民の合理的な算定に基づく要求額に基づいてなされ、かつ評価及び支払いは一年毎になされなければならない。

 三、アメリカ合衆国軍隊が加えた一切の損害については、住民の要求する適正賠償額をすみやかに支払うこと。

 四、現在アメリカ合衆国の占有する土地で、不要な土地は早急に開放し、かつ新たな土地の収用は絶対に行わないこと。というもの。

 同じ日に行政府、立法院、市町村長会、軍用土地連合会は「四者協議会」を結成し、この決議にそって米民政府との交渉をすすめることになった。

 しかし米民政府は「統治権を行使する間、公共の必要のため要請されるならば、いかなる私有地をも取得する」のが基本原則であると、既定方針を変えず、この原則の変更は現地民政副長官の権限外である、と取り合わなかった。

 11月1日オグデン民政副長官は、「土地問題四原則は非現実的である」との書簡を立法院へ送っている。

 こうした動きの中でも「既定方針」という土地の新たな収用にむけての計画は強引にすすめられていた。

 10月4日には、伊江島の真謝・西崎区の土地18万余坪の接収を通告してきた。

 また、立ち退きを迫られている宜野湾伊佐浜の住民は、10月3日その中止を求めて主席に陳情を行っているが、しかし米民政府は、そうした訴えにはおかまいなしに、12月14日伊佐浜の住民に対して立ち退きを督促してきている。

 一方この時期、先にふれたメーデーをめぐる米軍の対処にもみられるように、反共攻撃を表むきにした弾圧のきびしい状況下にあった。その一つに「人民党事件」とよばれる人民党に対する弾圧がある。

 54年の7月15日、米民政府は奄美出身の人民党中央委員林義巳と畠義基の2人に、48時間以内の沖縄からの退去命令を出した。

 「日本復帰運動や住民を扇動するなど2人の行動は沖縄の福祉に反する」という理由によるものだった。

53年12月25日に日本に返還されて後、奄美出身者は、以前からの沖縄在住者は半永住の資格が与えられたが「琉球人」としては認められず、不安定な身分にあった。(その頃喜舎場君と一緒に奄美出身者の名簿整理のアルバイトをしたことがある。)

 退去命令を受けた2人は、「琉球は日本の領土であり、日本の領土に日本人の居住を拒否するのは不当」として、退去命令に従わず地下にもぐった。

 このことをきっかけに、犯人隠匿幇助および教唆などの容疑で、瀬長亀次郎人民党書記長をはじめ多数の人民党員を逮捕した。

 そして軍事裁判で瀬長亀次郎は2年の刑を言い渡されている。

 (瀬長氏が収監されて間もない54年の11月7日、沖縄刑務所で暴動が起こり、在監者により5日間にわたって刑務所構内が占拠された。受刑者の人権尊重、待遇改善などを要求してのものであったが、米軍はロシア革命記念日のこの日を期しておこした人民党の計画的行動であると宣伝したが、その立証はできなかった。)


 54年10月、私は国文学科選出として学生会の中央委員をつとめることになった。(54年10月から55年9月まで)

 学生会役員の改選期は、学年度の後期のはじまる10月で、会長は全学生の投票による選挙で選ばれ、各学科から選出された中央委員で執行部が構成されていた。副会長、事務局長はその中から選任する。学生会はおよそこのような仕組みで運営されていた。当時の会長は津留健二だった。

 文芸部(「クラブ」から「部」に改称)には伊礼孝、儀間進、宮城妙子、宮城美智子らが加わっていた。

 この時期、先述のように、統治者としての権利を手にした米軍は、その統治目的遂行の障害となるものに対しては強権をもって容赦なく排除にとりかかる。

 すでに各地で新たな土地の強制収用が頻発していたが、更に大きく動き出そうとする様相をみせていた。
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