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私記:父の記録

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朝日報道 住民も声を上げはじめていた。それが「四原則」にまとめられ、上層部も動き出してはいた。だが、

 55年1月17日、アイゼンハワー米大統領は予算教書で沖縄の無期限保有を再確認している。これは沖縄に対する具体的施策に変更のないことを意味していた。

 こうしたアメリカの恒久基地建設の基本方針のもと、人権抑圧のきびしい状況にあるなか、55年2月13日の朝日新聞は「米軍の『沖縄民政』を衝く」という特集記事を掲載した。これは自由人権協会の調査を中心にしたものであったが、沖縄の内情がはじめて対外的にとりあげられたものであったろう。「朝日報道」とよばれた。

 そのきっかけは、沖縄に住む一人のアメリカ人宣教師が「クリスチャン・センチュリー」紙に発表した軍政批判の論文が、国際人権連盟議長のボールドウィン氏の目にとまり、自由人権協会に調査を依頼したところからといわれる。

 閉ざされた中で孤立していた沖縄が、ようやく外からの視線が向いてきた。国際自由労連の調査団の来島(米軍も体面上許可せざるを得なかったのだろう。総評、社会党などは入域を許可されなかったが)などマスコミをにぎわし、何らかの変化が期待された。しかし内実は変らなかった。
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