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私記:父の記録

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伊江島と伊佐浜  恒久基地建設を急ぐ米軍の方針は変らず、強引な土地取り上げが相ついでいた。

 伊江島、伊佐浜の土地闘争は、長期にわたる住民の激しい抵抗を武力でおさえこんだ代表的な例であった。

 両地区にはすでに収用通知が出されていて、住民の反対運動がとりくまれ、回りの関心も高まりをみせはじめていた。

 55年3月11日には伊佐浜に武装兵が出動、農地にブルトーザーを入れて整地作業を開始しようとしたが、住民はその前に坐りこんで抵抗したため、この日はひとまず引き上げている。

 同じ時期、強制収用の嵐は伊江島を襲っていた。

 3月14日伊江島真謝区では、輸送機でのりこんできた武装兵によって区民の抵抗を排除し、住家を焼き払い、あるいは重機でおしつぶして強制収用している。

伊江島は離島である。米軍はいつでも必要な兵員や物資を輸送機、ヘリコプターで即座に空輸できる(島の中央部には日本軍が建設した飛行場があって、引き続きこれを米軍が使用)。

 住民側にとっては、まだ組織的な支援体制ができていない事情もあったが、地理的な条件等、島外からの支援は期待できず、孤立無援の抵抗であった。

 家屋を破壊され、農地を奪われ、生活保障もない真謝の人々は、取り上げられた自分の畑に入って耕作をしているところを逮捕される等、窮地に追いこまれ、あげくの果て政府前にテントを張って坐りこみをはじめた。

 子どもらを含め“われわれはすべての生活手段を奪われ、乞食をしなければ生きていけなくなった”と、自ら「乞食行進」と称して那覇の目抜き通りを行進しては米軍の仕打ちの不当を訴えた。

 これは各方面に反響をよんだ。

 6月、琉大学生会でも支援のためのカンパ活動がとりくまれた。真謝の人々の訴えが、何かそれに応えることをしなければという学生の関心の高まりがつき動かしたとりくみであった。金額の記憶は定かでないが、学生会としてはじめてのカンパ活動にしては、かなり集まった方であったと思う。

 学生会では、現地の調査と激励をかねて直接その支援金を届けることになり、中央委員をしていた私もその一員として伊江島を訪れた。

 その時のもようはルポルタージュとして書いた。(「琉大文学」第9号。同行した松島さんも「伊江島―島の季節―」という詩を書いている。)

 私たちが訪ねたのは6月の20日頃で、強制執行からおよそ3カ月を経過していた。

ちょうど真謝の陳情団の引き上げと一緒になり、同じ船で島に渡った。

 指導者の一人である阿羽根昌鴻さん(今なお平和を訴え続けている)の案内で真謝部落の住家の跡などをみたのだが、武装兵で住民の抵抗を押さえこむ中、ブルトーザーで押しつぶし、あるいは焼き払われたあとがまだ生々しく残っていた。

 住いを追われた人々は、島の中央部をはしる飛行場の滑走路わきに、米軍の野戦用テントの仮住まいで、中は電気はなくランプが灯りむし暑くムッとしていた。

 収入はなく、農耕もできない。生活は窮していた。

 先にもふれたが、生活のため人々はやむを得ず強制収用された区域(演習場)に入り農耕をしていたところ、われわれの訪問の一週間ほど前の6月13日、突如米軍に逮捕されるという事件が起っていた。その日区民約80人が農作業をしていたが、武装兵に追いたてられ、働きざかりの男性32人が乱暴な扱いの中飛行機で嘉手納基地に運ばれ、コザ署で軍事裁判にかけられた。

 残された家族は14日全員で那覇に出て、琉球政府に対し「私たちも同じ所で仕事をしていた。一家の柱がいないと食べていけないから全区民を収容してください」と訴え、さらに16日には児童・生徒を含め約120名が政府へ行き生徒らは「私たち生徒は食物もなく学校を休んでいます。どうせ学校にも行けず食物もない位なら刑務所に入った方が良いと思います」と訴えた。

 即決裁判の結果は、3カ月の懲役、1年の執行猶予を言い渡されている。


 伊佐浜は1号線(現国道58号線)沿い、普天間へ通ずる伊佐交差点の内側、目立つ場所にある。水田が広がり、地味がよく美田といわれていた。

 米軍の出動がくりかえされ、住民はねばり強く抵抗していた。

 7月○日、前日から状況が緊迫しているときいていた。その日早朝、私も伊佐浜へ向った。(急ぐにもバスを利用するしかなかった)

 私が現地に着いた時には、すでに大勢の人々がつめかけていたが、銃剣をかまえた武装兵が1号線沿いに立ち並び、内側の伊佐浜部落との出入りを遮断していて、中に入り込むことができない。

 中がどのような状況にあるのか、はっきりとは確認できなかったが、坐りこみをして抵抗している住民を力ずくで排除し、住家のとりこわしにかかっているのであろう、重機の動きがみえていた。

 川満と喜舎場の両君は、前日から中に泊りこんでいたが、収用強行に入ってから武装兵に銃尻でたたかれ、たんぼのあぜ道を追いまわされたという。

 後に聞いたところでは、その日未明、武装兵をのせたトラックが数台、ライトを消して秘かに現地に近づき、1号線を封鎖し不安をかかえながら不眠の警戒をしていた部落を急襲したのとのことである。緊急事態に備えてはいたものの、不意をつかれ無防備の住民は、軍隊の暴力には抗するすべもなかった。

 部外者は容赦なく排除され、部落の住民は近くの大山小学校に仮収容された。

 私は状況がどう進行しているかつかめないまま、銃をかまえて立つ米兵の表情をうかがいながら、空しい気持をかかえ人々の間をうろうろ歩きまわっていた。

 1号線は混雑していて、その中を徐行していたバスの中からいきなり「おい」と声をかけられた。“ギクッ”としてふりむくと、バスの運転手をしていた従兄である。

 「こんなところをうろついていて何をしている。危ないから早く乗れ」といわれ、黙ってバスにのりこみ那覇へ帰った。

 後ろめたい気持がした。人々が生きるための赤裸裸な現場を素通りしただけであった。


 その後伊佐浜の住民は高原の丘の上(通称インヌミヤードウイ)に移住させられた。

 その移住地を大城清、具志和子(彼女はこの年入学、文芸部に所属していた)と共に訪ねたことがある。汗をかきながら坂を上った。

 平地にみえるそこには急ごしらえの住宅が点在していた。ここでの暮らしむきについてきいたが、50代の男の人(名はきかなかったか、あるいは忘れたか)は、「芋を植えてあるが、ここで暮らしができるかどうかわからない」と、無表情で答えていた。

 石ころだらけの荒蕪地である。まともな畑にするには何年かかるだろうか。先の見通しのたたない土地に、住みなれた土地を追われた人々は置きざりにされていた。


 学生会は6月の伊江島カンパには積極的なとりくみをすすめた。沖縄で起こっている対米軍関係の事象にも目をむけるようになったといえよう。が、7月に起こった伊佐浜のたたかいの現場にかかわるには至っていない。

学生会に限らずこの時期、組織動員で土地とり上げ阻止に参加した組織はまだなかった。

 米軍と直接対峙することの深刻な意味合いがそこにはあった。学内でも話題には上がっていたが、必要な用意の経験もなく、いざ動員というふん囲気にはのぼりつめていなかった。

 10月は学生会役員の改選期である。川満、岡本らは、嶺井が会長に立候補してはとしきりにすすめ、仲宗根孝尚は休み中に推せん原稿を書いてくるといっていたが、柄にもないことと断り、中央委員も喜舎場君にかわってもらった。会長には経済学科で新聞部長をしていた古我知勇が当選した。

 私は文芸部をみることになり、前年度休学して読谷高校に勤め、戻ってきていた「河西門太」と二人で「琉大文学第10号」(55年12月刊)から編集責任者に名を連ねた。


 前後するけれども、あるとき奇妙なことがあった。55年2月5日発行の「琉大文学・第8号」が、知らぬ間に突然店頭から姿を消した。でき上がった本は、都度市内の書店に頼んで置いてもらっていたのだが、毎号完売ということはなかった。それが一冊も残っていない。売れたのならよろこばしいことだが、どうも尋常ではない様子だった。ある人物が回収していったという。(金は払った?)

 当時の編集責任者は池澤(岡本)と川瀬(川満)であった。どういう意図でなされたものか明らかではなかったが、まわりに監視の目が光っていることを思わせた。


*正確な資料がないため日にちははっきりしない
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