>>TOPページ

私記:父の記録

琉大が燃えた日トップへ


前のページへ   次のページへ



火種トップへ


「琉大文学」発刊停止 われわれの身辺にもCIC(米軍防諜部隊のこと。米軍からみて反米的分子とみられる個人や集団の活動を調べ上げていた)がうろつきはじめていたが、56年に入って雑誌発刊に米軍の手が直接のびてきた。

 56年3月15日発行の「琉大文学・第二巻第1号」に関して、発刊後間もなく米軍から圧力がかかってきた。顧問教官の嘉味田先生を通じて呼び出しがかかり、編集責任の豊川と2人で学生課に出向いて事情をきかされた。

 米民政府当局から、「琉大文学」の内容が不穏当であり、それに対する処分を求めてきているという。どの作品のどういうところが問題なのかきいてみたが、特に具体的な指摘はなく、雑誌全体の傾向がよくないということのようであった。釈然としない気持だったが、嘉味田先生のおだやかに納めようというとりなしもあって、始末書を書いた。

 これで問題は落着したと思っていたのだが、さらに米軍は具体的な処置、つまり「琉大文学」の発刊と文芸部の活動の停止を求めてきた。意にそわないものは押しつぶすということである。

 当時副学長で、大学当局側の責任ある立場にあった仲宗根政善先生も交えて話し合い、きびしいお叱りを受けるでもなく、われわれの立場、言い分にも理解を示したが、しばらく休む形にでもしないと納まりそうにもないということで、結局前期中(10月まで)の発刊停止ということになった。

 この間のことについては、豊川が朝日新聞に出した手紙(56年8月13日)にも述べられている。(ドキュメント沖縄闘争。新崎盛暉編に集録)

 なお沖縄タイムスに連載された「琉大風土記」(89年12月12日)でもこの間の事情についてとりあげているが、その中で「琉大文学」に関する米軍側の資料についてふれている。次のようなことである。

 「コンフィデンシャル(秘密)と書かれたこの資料は、ライカムGU(琉球軍司令部諜報班)が作成したとみられるもので、「琉大文学グループがアメリカの政策を叱責する」との表題で、琉大文学二巻1号掲載の短歌と浜丘独(本名仲宗根孝尚・故人)の詩「息子の告訴状」を取り上げ、反米的姿勢を問題にしている。米民政府は、この機をとらえて大学当局を動かし、処分を断行させたのである。」 

 ということであるが、もちろん当時はそうした資料の所在は見聞していなかった。

 この年、中里友豪、清田政信らが文学部に入ってきたが、彼らにとって作品発表の場を奪われた気の毒な事情にあった。そして間もなく大きな渦にまきこまれていくことになる。
- 7 -



前へ      もくじへ      次へ