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私記:父の記録

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決起前夜



 伊江島、伊佐浜に象徴されるような土地とり上げが相つぎ、米軍のその非道な仕打ちに人々の目も向けられるようになってきた。

 この間の土地問題をめぐる動きをたどってみると、

 先にも述べたように、立法院が「土地四原則」を決めたことに対し米軍は、オグデン民政副長官名で「土地問題四原則は非現実的である」との見解を表明する一方、基地建設をめぐる基本方針の変更は現地軍の権限の及ぶところでない、と「四者協」との折衝を拒否し、既定方針通り土地の強制収用を続けていた。沖縄内での現地軍との交渉による問題解決の道は閉ざされ、出口のない深刻な事態にあった。こうした状況打開の道がさぐられていたが、55年5月22日、軍用地主を中心に「軍用地問題解決促進住民大会」が開催され、翌23日、比嘉秀平行政主席をはじめ四者協議会の代表6名が、直接米国政府との折衝のため渡米した。

 現地での軍用地問題では強行手段をとる一方、米民政府が代表団の渡米を認めたのは、対立点となっている問題について、住民を納得させるにはひとまず民主的な体裁を装うことが得策と判断したのであろう。その実妥協の余地など考えてはいなかった。

 この代表団の要請を受けて米下院軍事委員会は、M・プライス議員を委員長とする特別分科委員会の調査団を沖縄に派遣した。

 プライス調査団は10月23日の晩嘉手納基地に着き、実質2日半の現地視察と事情聴取を行い沖縄を去っている。

 この特別分科委員会が議会に提出した報告書と勧告がいわゆる「プライス勧告」である。

 56年1月、アイゼンハワー米大統領は、三たび「沖縄の無期限確保」を言明した。
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