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私記:父の記録

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あとがき



 40数年前のことである。琉大開学50周年の節目というわけでもないが、友人らのすすめもあって、あの当時のことを書いてみることにした。

 さてと、書く段になると手もとにはほとんど資料らしきものがない。本文でもふれているが、事件の最中本土へ渡ったとき、持参した資料をむこうに置いてきたということもある。

 事件のことは忘れ難くこびりついているけれども、これだけ時が経ってしまうと細部については記憶に乏しく、書く手だてになるほどには残っていない。

 もとより出版のつもりはなく、まとめられるだけと考えていたから、資料集めに訪ねまわる気分にもなれなかった。手近なところで市立図書館へ行って当時の新聞をもとに経過をまとめ、それを手がかりに記憶をたどっていくことにした。

 「事件」の性格が個人的な行為によるものではなく、土地闘争という中でのできごと。

 学生処分の周辺だけというわけにもいかず、当時の沖縄の情況とのかかわりでとらえなければ問題の所在はつかめないと思った。

 どこから書き始めるかについても、問題の背景、連続性といったことから、琉大入学当時からの特徴的なできごとにふれていくことにした。

 書くに際しては、誰かの意見をきいたり、確かめたり、取材らしきことは一切しなかった。自分自身の体験、感じたことを中心にまとめたつもりだが……。読み返してみると情況の解説に偏したみたいで気に入らない点が多い。が、ともかく批判を仰ぐつもりでそのままコピー(限定)することにした。何れ書き改めることもあろうかと思う。

 「終局」は、切りがいいので沖縄を離れるところで止めた。

 その後のことをすこし。

・行先は日大に決まっていたが、一応編入試験を受けたこと。形どおりとは思っていたものの、自己採点の結果はかんばしくなく心細い思いをした。

・琉大の中山教務部長の来訪があったこと。学期が始まってしばらく、学生課から呼び出しがあり喜舎場君と2人理事長室に案内され、そこで中山部長に会った。受け入れのお礼にみえたのであったか、われわれも古田理事長にあいさつすることになった。そのとき、どうしたことか古我知は顔をみせなかった。

・琉大国文科同期の友人たち(3月に卒業)を中心に集められたカンパが平山良明の名義で送られてきたこと。先輩たちを含めてよびかけがあったようであるが、有難い友情を感じた。等々。

 これを書き出した頃、豊川氏から電話があり、処分にあった諸君の消息を聞いてきたが、私も彼の知る範囲で、変った近況を伝えることができなかった。できれば当事者のみんなが揃って話し合ってみることがいいのだが、それは叶わぬことと思う。残念なことではある。だからこれは、私の身辺からみたいわゆる「私記的」な記録である。

 なお、「琉大が燃えた日」というタイトルは中里友豪君の発案で、それを採用させてもらった。

                    2000年 4月



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