サバイバー
3
粒子の細かい真っ白な砂浜に、寄せては返す白い波。
視線を遥か遠くに向けると、真っ青な空に溶ける深い蒼の水平線が広がっていた。
波の音が拡大された視界の向こうから聴こえるようだ。
浜辺が見える窓枠に近寄り、桜子はもう1時間ほど双眼鏡から見える景色を眺めていた。
いや、眺めていたのではなく、正確には人を探しているのだが。
薄桃色のレースカーテンが風を受け、桜子の頬を撫でていく。
田沼が集めてきた情報によると、島の半分を使って何かゲームが行われる予定となっているらしい。
島に到着した際に桜子が見たあの多くの人々はそのゲームの参加者だったようだ。
その参加者の中に、彼の人はいた。
彼の名前は国閃寺由暁。現在、建設会社で社長秘書に就いているという。
双眼鏡から視線を外し、ガラステーブルに置いた1枚の紙へと目を移す。
風を受け、めくれあがった紙切れには一枚の写真が貼ってあった。
履歴書の写真がまっすぐに桜子を見つめる。感情を見せない瞳が桜子を惹きつける。
胸の鼓動が強くなる。全身の血液がいっきに顔に集まった。
写真だけでコレなのだ。本人を前にしたらいったいどういうことになるのか。
考えただけでも気を失いそうになるが、いつまでもこうしているわけにはいかなかった。
ゲームの詳しい内容を田沼から聞くにつれ、顔が青ざめ身体が震えた。
しかし今回、まだ改造途中であるこの島にわざわざやってきたのは、運命の恋を手に入れるためだった。
南の島で、熱く激しい恋に身も心も焼かれなければいけない。
そのために多大な犠牲を覚悟してこの島にやってきたのだ。
桜子は震える身体を両腕で抱きしめ抑えると、背後に控える老人に命じた。
「田沼。わたくしも参加します。今すぐ責任者を呼びなさい」
「気持ち良いね」
砂を踏む音がゆっくりと朱蘭の右隣に並ぶ。
少女の剥き出しの腕に嵌められた69番の腕輪と同じ数字が振られた腕輪が視界の隅に映る。
「ああ」
顔に赤みが戻った青年をちらりと見やって、少女は再び海へと目を戻した。
「大丈夫なんだろうな?」
確認する口調はややきつい。思わぬ不安要素がよほど気に入らないのか。
「なんとか。わるかったね」
決まり悪そうに柔らかな栗色の髪をかきあげ、まさみは頭を下げた。
「徹夜明けだったのか?」
悪かったな。引っ張り出して。
まさみを見ずに問いかける少女に、青年は破顔する。
乱暴な言葉使いとは裏腹の、優しい気づかいが素直に嬉しい。
一定のリズムをもって耳に届く波の音が、昨日までの疲れを癒していく。
船上よりも濃くなった潮の香りが鼻をくすぐる。
海の香りをたっぷりと吸い込んで、まさみは頭を振った。
「徹夜明けではないけどね。いろいろ立てこんで寝不足だったんだ」
船も初めてだったし。
小さく付け加えられた台詞に、朱蘭が敏感に反応した。
「は? マジで言ってんの?」
冗談だろ?
驚きに目を見張る彼女の瞳は今にも零れんばかりだ。
「えーと……マジなんだけど」
変かな?
彼女を見つめる青年の仕草が、首をかしげきょとんと飼い主を見上げる犬のよう。
「マジ? 変なやつ」
たまらず吹き出した朱蘭の笑顔が、年相応の少女の顔になる。
花が開いたという形容がぴったり当てはまる笑顔が、まさみをほっとさせた。
大人相手に何かとつっかかる少女の、素直な感情表現に嬉しくなる。
尖っているように見えて、その実、すれていない。真っ直ぐな純粋な瞳が、まさみを安心させた。
「そっか。じゃ、悪かったな。けっちまって」
白いうなじをかき、小さく頭を下げる朱蘭の背後で、またひとつ砂を踏む足音が聴こえた。
振り返る先にまだ少し顔色の悪いもうひとりの同行者が立っている。
「おい。この大会の責任者が呼んでるぞ」
切れ長の無表情な瞳がまっすぐに少女を捉えている。低い平坦な声が薄い唇から発せられた。
よほどのことがない限り不機嫌そうな表情を変えない青年はそれだけ言うと踵を返した。
「書類の不備か何かかな? 結城、君、まだ何もしていないよね?」
「まさみちゃん、一言よけい」
朱蘭はじろりと青年を睨み上げると、首をかしげるまさみの横っ腹に肘鉄を食らわせた。
身をよじり、ごほごほっと咳き込むまさみを置き去りにし、朱蘭は由暁を追いかけた。
「悪夢だ……」
嘘だろう。
雲ひとつない藍に近い蒼い空を振り仰ぎ、結城朱蘭は絶望の息を吐き出した。
ゲームの責任者を名乗る男性は彼女たちにひとりの美女を紹介した。
朱蘭の人生にまったく縁のない上品さを漂わせた女性がそこにはいた。
今までの生活の中で不自由を感じたことはないだろうと楽に想像できる外見。
傷ひとつない繊細そうな手や手入れの行き届いた肌。
どこかのお嬢さまであることは間違いなかった。
サバイバルバトルの運営本部として設置されたテントに呼び出されたのは、つい先ほど。
呼び出されるようなことは何もやっていない。失格になる覚えもない。
首を傾げつつも呼び出しに応じた朱蘭たちを待っていたのは、歓迎できない申し出だった。
『メンバーに欠員がで、彼女一人あぶれてしまったので、急きょこちらの組に組み込ませていただきました』
額に光る汗をしきりに拭い、メガネのズレを直しつつ男が一通りの説明をする。が、朱蘭には納得がいかない。
この場合、失格となるのが普通である。それなのになぜ彼女は失格にならないのか。
どうも胡散臭い。
首の後ろからまた何かが這い上がる気配がする。
嫌な予感がする時に必ず起こる感覚に、朱蘭は顔をしかめた。
色白の整った顔にナチュラルメイクを施した美女は愛想笑いを浮かべている。
どうみても今回のバトルに参加するようなタイプにはみえない。
紫外線が多量に降り注ぐ太陽の下で汗や砂にまみれるよりは、
エアコンの効いた室内で雑誌を読んでいる方を選ぶようにみえたのだ。
いや、太陽の下で日に焼け、汗をかくこと自体、考えに浮かばないタイプのはず。
冗談じゃなかった。
お嬢さまの道楽に付き合うほど、こちらは暇じゃない。
そんなことのために参加したのではない。自分たちは賞金と副賞を手に入れるために来たのだ。
首をかしげ、斜め下から仰ぎ見る彼女の視線に寒気を覚えた。
精一杯好かれようとしていながら、どこか馬鹿にしている瞳の色が、気に食わなかった。
唇を噛み締め、朱蘭は女性を観察し続ける。
彼女の目的が何なのか。
果たしてすぐにそれは知れた。
尖った瞳を向ける朱蘭の前で、美女が動く。
「はじめまして、僕は神崎……」
責任者自らの説明に頷いて、まさみは疑問ももたずに彼女を受け入れる気でいるらしい。
尻尾を振る犬よろしく笑顔で彼女に近付いた彼は、
しかし自己紹介が終わらぬうちに美女本人により場外へと突き飛ばされる。
押しのけられたまさみは、砂浜にしりもちをつき、目を大きく見開いたまま声も出ない。
美女はまさみのことなど眼中になく、由暁の前で立ち止まると、声を震わせ、熱烈アプローチを開始した。
「わたくし、神宮寺桜子と申します。はじめまして。嬉しいですわ」
貴方みたいな素敵な方に出会えて。
お名前を教えてくださいます?
長い睫毛を何度も瞬かせ、潤んだ瞳で由暁を見つめている。
その場にいるはずの朱蘭、まさみ、責任者はまったくの蚊帳の外である。
彼女の視界には由暁以外入っていない。
そこだけバラを飛ばし、すっかりふたりっきりの世界を作ってくれていた。
うそだろう。
朱蘭の思いをそっくりそのまま宿した瞳が、迫られている青年からも伝わってくる。
感情を宿すことが稀な青年の眼差しが、助けを求めるように周囲をさ迷う。
いつもは敵意しか向けない瞳が、「助けろ」と必死に訴えている。
まぁ、お嬢さまにひっかきまわされるよりはましか。
偉そうな由暁の態度に、溜息を吐き出し頷くだけに止め、朱蘭は彼の隣へと歩み寄った。
由暁には借りがないこともない。ここは大人しく訴えに応じることにする。
ま、そのためには多少の悪夢は目を瞑ってもらわなきゃいけないけどな。
厚みのある下唇をぺろりと舐め、少女は美女と青年の間に滑り込んだ。
「人のもの、とるんじゃねぇよ」
この女狐。
この場に相応しいだろう台詞をドスの利いた声で吐き出す。
数秒遅れて桜子の顔が紅潮した。
「なんですって」
わななく唇が言葉をつむぐ。
勝ち誇った笑みを作り、朱蘭は振り返った。ポニーテールが大きく揺れる。
視界が反転し、美女の代わりに状況を未だ把握しきれていない青年が映る。
不敵な笑みを浮かべ、少女は青年へと手を伸ばし、すばやく薄い唇を奪った。
切れ長の瞳が大きく見開かれる。青年の瞳に動揺が走った。
「我慢しろ」
青年の耳元で小さく命じ、朱蘭は駄目押しとばかり太い首に腕を回し、抱きついた。
!!
声にならない女の絶叫がしばらく辺りに響き渡った。
出会い頭の強烈なパンチに、絶対に彼女の参戦はないものと踏んでいた。
不安要素は絶対排除と決めていた朱蘭の計算はしかし狂うことになる。
朱蘭の行為は火に油を注ぐ結果となったのだ。
お嬢さまは舞台から退場するどころか、燃えるような眼差しと、形の良い指を朱蘭に突きつけ、
「絶対に負けませんわ。わたくし、貴女から彼を取り返してみせますわ!」
気炎を上げたのだ。
取り返すではなく、奪うの間違いだろ。
頭の隅で突っ込みをいれた朱蘭ではあったが、その後の展開を予想できてはいなかった。
はぁ。
重い重い溜息が自然と零れ落ちる。
やっかいなものを引き受けてしまった。
置いていかれないようにと意地になってくらいついてくる美女の息遣いを背中で感じ、
朱蘭はますます足が重くなる。
後悔してもあとのまつり。
成り行きとはいえ、少女は美女の闘争心に火を点けてしまったらしい。
紅蓮の炎を宿した眼差しが、背中に突き刺さる。
なにが哀しくて由暁の奪い合いなんてしなきゃいけないんだ。
横に並ぶ男の氷の眼差しを見遣り、朱蘭は何度目かもわからない溜息を吐き出した。
頭上からは蝉の鳴き声がシャワーのように降り注ぐ。
葉の間から零れ落ちる陽は光を和らげ、柔らかく頬を身体を照らしていた。
強烈な紫外線が届かない分、ジャングルの中はひんやりとしていた。
突如、島の上空に現れたヘリコプター。視線の集中したソレから大きな物体が放り投げられた時、
サバイバルゲームはスタートした。
島の中央に広がるジャングルに落とされた食糧を見つけ、手に入れいる。それがこのゲームの
最初の指令だった。もちろん第一発見者の所属するチームがその食糧を独り占めでき、ポイントを
得ることができるのだ。出し抜くためには個人プレーが有利なのだが、誰かさんのおかげでそれも
出来ずにいた。
食糧がジャングルの中に落とされてからすでにかなりの時間が経っている。
すでに見える範囲には人の気配はなかった。
二手に分かれて獲物を探すはずが、お荷物であるお嬢さまのせいで、
朱蘭たちは無駄な団体行動を強いられていた。これでは他のチームとの差が広がるばかりである。
食料獲得は絶望的といっても良かった。
道なき道を上る4人の額からは汗が滴り落ち、背中はぐっしょりと濡れている。
重なる緑が、濃く薄く辺りを飾っていた。
渦中の人物のはずの由暁は、相変わらずの不機嫌そうな表情を変えることなく
無言で歩を進めていた。
向けられる熱い視線を感じているのかいないのか。表情からは心の内を読み取ることができない。
こいつのどこがいいんだろう……。
顎を伝う汗を拭う男が、視線を感じたのか、冷やかな目を朱蘭に向ける。
雄弁に物語る厭味ったらしい眼差しと一瞬、目があった。
その瞬間、背後の炎が一層激しくなる。気のせいか歯軋りに似た音も聴こえる。
目があっただけだろう……。
げんなりとした表情で空を仰ぎ、朱蘭は視界に入る汗を拭った。
すでに食糧獲得は諦めていた。得られたはずのポイントと食糧を思い、朱蘭は一段と表情を暗くする。
とんだ足手まといのせいで、チームは足切りギリギリラインに立っているはずだった。
気楽でいいよな。
舌打ちのついでにもう一度溜息を吐き出し、朱蘭は由暁が寄越す蔦を掴む。
嫉妬の炎を燃やす視線の主に対し不満を洩らしながら、朱蘭は先を行く青年に続いた。
悔しい。このわたくしが何もできないなんて!
肩を並べて歩く
ふたりの背中をブレる視界の中央で捉え、お嬢さまは歯軋りをする。
ジャングルに生い茂る木々が影を作り、天然のクーラーとなってはいたが、
やはり暑いものは暑い。頭から額へ、額から頬を伝い顎へと流れ落ちる滝のような汗が
視界を滲ませる。
「そこはわたくしの場所ですのに!」
彼の隣にはわたくしこそが相応しいはず。あんながさつな少女ではなく、気品に満ちたこのわたくしが。
手入れが行き届いた爪が薄桃色の肌を傷つける。
白くなるほど握り締めた拳の中で、爪が肌に食い込み、うっすらと血が線を描いていた。
が、桜子は痛みに気づかない。
瞬きすることも忘れるほど、彼女は小柄な背中を睨みつけることに意識を集中していた。
意中の相手を独占するその背中。羨ましいほどの艶のあるストレートヘアーは今は無造作に束ねてある。
ポニーテールが少女の動きに合わせ、激しく左右に揺れる。
すらりと伸びた手足は、急な斜面でも足場を容易に捉え、楽に登っていく。傍らの男の手を煩わせることもない。
それがまた悔しかった。
近づきたくても近づけない。彼らのペースは速く、追いつこうともがいても引き離されるばかりである。
悔しすぎて涙も出ない。彼の気を引こうにも距離がありすぎて気づいてもらえない。
あ!!
突然、足元が崩れた。視界が大きくぶれる。反射的に伸ばした手が樹木が垂らすひげをかすり、宙を掴んだ。
「きゃーー」
悲鳴に、蝉が鳴くのを止め、鳥が数羽飛び立つ。
続く地面を擦る音に、温度のない瞳が振り返る。
執念なのか、態勢を維持するだけで精一杯のはずの桜子の手が、青年に向かって伸ばされる。
しかし届くはずもなく、距離は広がっていくばかり。
あり地獄に落ちていくような感覚を味わうこと数秒。
唐突に落下は止まり、代わりに背中に体温を感じた。
慌てて目線を下げると、腰に手を回す逞しい腕。抱きとめられた格好に、
お嬢さまの咽から声にならない悲鳴があがった。
目が極限まで吊り上がる。
「何するんです!」
乱暴に男の腕を振り解き、真っ赤な顔で桜子は背後を振り返る。
直後に響く乾いた音。
恩人のはずの童顔の青年は、振り向きざまの一発に、茫然自失で立ち尽くした。
見る見るうちに腫れあがる頬が痛々しい。
「失礼ですわ!」
汚れを払うように念入りに腰の辺りを叩き、桜子はまさみから離れる。
お呼びじゃない、と態度で示すお嬢様に、頭上から掠れた声が降ってくる。
「うわっ……痛そう」
顔を引きつらせ思わず本音を洩らす少女を桜子は反射的に見上げた。
瞬間、由暁の切れ長の瞳とぶつかる。
小波さえ立たない静かな眼差しが桜子を捉え、一瞬後には逸らされた。
ただそれだけの動きでさえ、桜子の胸をときめかせるには十分だった。
女を寄せつけない硬派なオーラを放出する青年に、桜子の目が彼方へと飛ぶ。
うっとりと余韻に浸る桜子の向こうで、遠くサイレンが響き渡った。