サバイバー





 台風一過の青空が広がる。
 薄く長い雲が水色の空を流れていた。
 昨日の嵐が嘘のような、澄み切った空と凪いだ海が広がっていた。
 暴風林の役目を果たしているぐるりを囲む木々は裸にされ、手を折られ、無残な姿をさらしている。
 確かな嵐の爪あとは、そこここにはっきりと残っていた。
 その荒れた林を見下ろす場所。デコボコと穴の開いた岩があこちこちに顔を出す、 緑と黄緑の濃淡が広がる空間がそこにはあった。かろうじて被害を免れた 草木が柔らかな風を受け、揺れる。
 揺れる雑草の間からうさぎのように出ては消え、消えては現れる影があった。
 影は頭上の空と周囲の緑を用心深く見渡し、やがて地上へと姿を現した。
 上から下まで痛々しいまでの擦り傷だらけの少女は、服にこびりついた泥を形ばかり叩く。
「まさみちゃん、大丈夫そうだ。登って来いよ」
 真下へ向けて発せられたハスキーヴォイスには、疲れがにじみ出ていた。
 人ひとり分がすっぽりと入る穴へと身を屈め、朱蘭は穴の中へと手を伸ばす。 団子状にし、頭上高くまとめられた髪の解れ毛が頬を撫で、揺れる。
 声に応えるように、少女の細い指に太い指が絡まり、遅れて青年が地上に現れた。
 青年は何度も瞼を閉じかけ、頭を振っては眠気を追い出そうとしていた。
「大丈夫か?」
 地上へ引き上げ、その顔を覗き込む朱蘭の鼻先で、まさみは控えめなくしゃみを発する。
「ああ、平……っしょん」
 平気だと言う直前に、またひとつ、くしゃみを放つ。
 その様子に、少女は羽織っていたシャツを脱ぐと彼へと差し出した。
「悪かった。寒い思いをさせちまって」
 ありがとな。
 朱蘭は借りていた青地のコットンシャツをまさみの手の中に押し込んだ。
「いや、僕は平気だから……これは、きみ……へっくしゅん」
 慌てて少女の手に返そうとするソレを、朱蘭は押し返す。
「頼りにしてんだ」
 殺し文句とも言うべき言葉をさらりと吐く少女を、まさみはまじまじと見つめ返した。
 思いがけない彼女の台詞はまさみを舞い上がらせる。
「頼りにしてる」
 もう一度、ゆっくりと繰り返した少女の声が、波の音とともにまさみに押し寄せる。
 「頼りない」とは言われたことはあっても、「頼りにしている」と言われたことがない彼である。 口の中で言葉を転がす。こみ上げてくる喜びを抑えられず、青年は全身から不気味な笑みを発っした。
 呆れ顔で自分をみやる少女の目にも気づかない。おまけに付け加えられた溜息も彼の耳には届かなかった。
「まさみちゃん……」
 気持ち悪いくらいにやにやと笑う青年に、少し引きぎみな少女が水をさす。
「まさみちゃん、喜んでいるところ悪いけど……そういうわけで、由暁への説明、任せたよ」
 え?
 唐突に振られた内容に、まさみが凍りつく。あの青年にすべてを話す……。
「え? え?」
 焦って上擦った声をあげる彼を見上げ、朱蘭は肩をすくめる。
「当然だろ? おれたちがこうなったのってまさみちゃんのせいなんだし」
 嘘だと判っていながら面白そうだとついていった己の行動を棚に上げ、彼女はすべての責任をまさみに押し付けた。
「責任もって由暁に謝んのが、筋だろ?」
 あいつ、カンカンに怒ってるだろうね。嵐は来るし、おれはいないし。
 唇の端を歪め、中途半端な笑みを浮かべた朱蘭は、まるで他人ごとのような口ぶりである。
「僕が?」
「当然だろ? まさみちゃんがお嬢さまと共謀してこんなことになったんだし」
 何を今さら、と言わんばかりの眼差しがまさみに向けられた。
 確かに、後先考えず、お嬢様の命令通りに動いた。 まさみは朱蘭の素性を知っていた。彼女が由暁たちにとってどういう存在なのかも。 知った上で彼女を連れ出し、危険にさらしたとなると……。
 由暁は簡単には自分を許さないだろう。
 考えただけで背筋が寒くなる。殺されるかもしれない。
 ぐちぐちと悩む青年の背中を、
 男だろ、覚悟決めろや。頼りにしてんだから。
 ばん! と派手に少女が叩く。勢いに押され、まさみはよろめいた。その顔はすでに色を失っている。
「か弱い女の子に、あいつの鉄拳受けろとは、言わないよな?」
 大の男と十分に渡り合える実力を持つはずの少女は、上目遣いにこちらを見上げてくる。
 誰がか弱いんだ、と心中で突っ込みを入れたまさみは、次の瞬間、 彼女の言わんとしていることに気づいた。
 か弱い? ああ、彼女のことか……。
 自分ひとりで責任を負えと言われ、まさみは深く重い息を吐き出す。
「わかった。頑張ってみるよ」
 ……情けない姿をさらすかもしれない。
 引きつる頬を宥め、なんとか笑みを浮かべたまさみは、小さく呟くように付け加えた。 死を覚悟したような悲壮な、厳しい表情が面に浮かんでいる。
「十分かっこいいよ」
 朱蘭の励ますような柔らかな笑みが、まさみの背中を押した。
 サンキュ。
 穏やかに駆け抜けていく風が、少女の言葉を青年の耳へと届けた。


 彼女を危険にさらしました。すべて僕の落ち度です。申し訳ありませんでした。
「すみませんでした」
 だから彼女を怒らないでやってください。僕がすべて悪いんです。
 童顔の青年に機先を制され、由暁は内心大きく舌打ちした。
 姿を現すなり機関銃の如く謝罪の言葉を叫び、神崎まさみは由暁の足元の砂に額を擦りつけた。
 灼熱の陽射しを浴び、やけどしそうな熱さにまで温度が上昇している砂の上に 素足で座り込んだ青年は、必死の形相で頭を下げる。
 一睡もせぬまま朝を迎えた由暁の瞳は赤い。充血した目が、無感動にまさみの後頭部を見下ろしていた。
 静かな怒りは表面には出ず、内側で渦巻いていた。
 青年の頭は綺麗な形をしていた。
 靴底で形の良い後頭部を踏みつけてやりたい衝動にかられながら、由暁はなんとか踏みとどまる。 踏みつける行為が子どもじみている気がしたのだ。
 噛み締めた奥歯が鈍い痛みを訴える。
 冷めた眼差しが、馬鹿の一つ覚えのように頭を下げ続ける青年を捉える。 色の悪い薄い唇からは、地の底から響き渡るような歯軋りの音が洩れた。
 流れ出るはずの溶岩は、直前でむりやり冷やされ、せき止められてしまった。
 吐き出されるはずの憤りが胸に溜まる。行き場のない怒りは燻ったまま、咽の奥に押し込まれた。
 傍観者たちが固唾を飲んで成り行きを見守る。
 許してやれよ。
 向けられる視線のすべてが言う。 容赦なく訴えかけてくる、そのまとわりつくような、束になった眼差し。 鬱陶しい眼差しに、由暁は折れるしかなかった。
「もう、いい」
 掠れた平坦な声が、投げやりにまさみの後頭部に向けて発せられた。
 ぴょんっと勢いよく上半身を起こし、青年は極限まで見開いた瞳を由暁に向ける。 信じられないと言いたげだった青年の顔は、手をあげるには躊躇われるほど無防備な、 こちらは恥ずかしくなるほどの、感情を全開にした笑顔に変わった。
「ありがとう。ありがとう」
 浮かべていた涙を拭い、心底嬉しそうにこちらを見上げる真っ直ぐな視線に、 由暁は舌打ちする。
 やっていられない。またしても彼女の策にはまってしまった。 うやむやにされてしまったことに今さらながら気づくが、もう遅い。
 土下座を敢行した青年の後ろで、周囲の野次馬に溶け込んでいた少女の姿を見つけ、 由暁は一瞬、無表情だった顔を怒りに歪めた。
 目があった瞬間、唇を引き上げ、少女は笑った。勝った、といわんばかりの傲慢な笑み。
 ギリギリと噛み締めた口内から鉄の味が広がった。
 立場上、逆らうことも、手をあげることもできず、由暁は拳を握り締める。 が、一瞬後、切れた唇の端を吊り上げた。
 ささやかな意趣返しを思いつく。きっと彼女は地団駄を踏むだろう。
 嫌な予感を感じたのだろうか、男の微かな表情の変化を敏感に嗅ぎ取った少女が 眉間に皺を寄せた。眼差しが「何だよ?」とけんか腰に問いかけてくる。
 焦らすつもりで下げた目線の先に、まだ砂の上で正座したままのまさみを認め、 由暁は思わず青年に手を差し伸べた。
 我慢できないはずの足の熱さを必死に堪えてた青年は、差し出された手に戸惑っていた。 躊躇するまさみをむりやり立ち上がらせ、由暁はまず先に青年へと告げる。
「荷物をまとめてある。湊へ行け」
 告げられた内容に目を見張る青年の表情を見ることもなく、由暁は乱暴にその背を湊の方向へと押し出した。 湿った布の感触が残る。肌が透けて見えるほどにぐっしょりと濡れた背中。
「……由暁。まさみに何を言ったんだ?」
 赤くなった足をひきずって歩く後姿を見送る由暁に、焦れた朱蘭が詰め寄った。
「たいしたことではない。荷物を持って湊に行けと言っただけだ」
 右の眉を微かに引き上げ、由暁は彼女にとっては衝撃的な事実を告げる。
 遠まわしに告げられた内容に、朱蘭の顔が徐々に変わる。零れんばかりに見開かれる瞳。 極限までつりあがっていく整った眉。ぷっくりとした唇が小刻みに震え始める。 逆立たんばかりの黒い髪。日焼けした肌が、それ以上に赤く染まる。
 ゆらゆらと彼女を包む空気が蜃気楼のように揺れる。
「な、な」
 掠れた声が、言葉にならない音を発した。
 野次馬の同情的な眼差しが一斉に少女に注がれる。 起こる事態に備えて少しずつ少女との距離を広げながら、野次馬たちはそれでも好奇の視線をふたりから 外そうとはしない。
「じょ、じょうだんじゃない! なんで、おれたちが追放?!」
 阿修羅のような形相の朱蘭を間近にしながらも、由暁は怯まない。 淡々と、冷やかに、食い下がる少女を切り捨てる。
「全員一致で決定した。諦めろ」
 俺も納得済みだ。
「だからなんでさ!」
「自分の胸にきいてみるがいい」
 勝手なことをするからだ。
 胸倉に掴みかからんばかりの勢いの少女の手をうるさげに払い、由暁は冷たく突き放す。
「それとも俺達を納得させる弁明ができるのか?」
 決定を覆すほどの説得力をもった言い訳が言えるのか?
「……」
 鼻で笑って挑発する由暁に乗せられるように、大きく口を開いた朱蘭は、しかし次の瞬間、言葉を発することなく口を閉じた。 不満そうに睨みつけてくる眼差しが、まだ怒りを内包している。が、言い訳をするつもりはないようだった。
「ないんだな。それなら荷物を持って湊へ行け」
 唇の片端を笑みの形にあげる。見下すような笑みに、少女の頬が引きつる。
「おれに命令するな」
 する立場じゃないくせに。
 負け惜しみのような台詞を吐き出し、しかし結局少女は、由暁の言葉に従った。
ゆらゆらと揺れる蜃気楼を引きつれ歩いていく少女の背中をいくつもの視線が見送る。 静かに降りてしまった幕に不満を好き勝手にこぼししつつ、 彼らは強力なライバルの退場にほっと胸をなでおろしていた。





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