サバイバー
8
湊に待機していたクルーザーに殺気のこもった視線を向け、朱蘭は立ち止まった。
往路の漁船とは違った大きな船は、我が物顔で湊を占拠していた。
来た道を振り返る。黒く見えるほど濃い緑の向こう、耳を塞いでもなお聴こえる蝉の声が
暑さを煽っていた。顎を伝う汗を拭う。
瞳に映るのは遠巻きにこちらを見送るいくつもの視線。注がれるいくつもの哀れみの目が、
朱蘭の心をいっそう苛立たせる。
「さっさと歩け」
冷やかな台詞と同時に背中を押され、少女はよろめきながら青年を見上げた。
無言で睨み上げる朱蘭の視線を、由暁は真正面で受け止める。
微かに上がった唇の端が、彼の心情を表していた。
ちっ。
面白くない。優位に立っていたはずの自分が見下されている。
しかし、だからといって今さら、あれはお嬢様の策略だった、とは口が裂けても言えなかった。
自分でまさみにすべてを押し付けたのだ。今さら翻すのは主義ではない。
別にお嬢さまを庇うつもりはなかった。正直にすべてを話した時の由暁の反応を
思うと、なにやら面白くない状況になりそうだったからごまかしたのだ。
お嬢さまに騙されたと言えば、
『それだけも見破れないのか』と答えが返ってくるのは間違いない。
わざわざ乗ってやったと言えば、
『自業自得だな』と嫌味な答えが返ってくるだろう。
判っているだけに話す気にはとうていなれなかった。
おれは被害者なんだぞ!! と声を大にして叫びたい思いをぐっと堪える。
炎をごくりと咽の奥に押し込んで、少女は再び目前の船を見据える。
朱蘭は未だ沈静化しない憤りを瞳に宿し、元凶たる美女の
持ち船へと乗り込んだ。
早く降りたい……。
意識しなければ呼吸すらも危うい、重苦しい雰囲気が空間を包む。
ちょうど良い温度に設定されているはずの室内なのだが、なぜか汗が全身を濡らしていた。
恐る恐る息を吐き出し、まさみは額に浮かぶ大粒の水を拭う。逃げたい、というのが今の彼の偽らざる本音である。
息苦しい空気は同時にふたつの方向から流れてきていた。
『触るな。キケン!』を全身で表している人物は、部屋の隅で膝を抱え、微動だもしない。
不穏な空気を発生させるも、沈黙を守ったままであった。
お嬢さまを視界に入れたくないのか、結い上げていた髪を下ろし、俯いている。
彼女の性格からいって、今の状況に納得してはいないはずである。
にも関わらず、暴れもせず、じっと堪えている。その姿は異様であり、不気味だった。
一方、対角上の部屋の隅では足を組み、その上に組んだ手を添えるように置いている美女の姿があった。
端正な顔を歪め、アイラインで綺麗に縁取られた瞳を真っ直ぐに少女へと向けている。
濡れた唇が何か言いた気に開いては、言葉を発することなく噛み締められた。
彼女もまた、この状況に納得していないようだった。それも当然である。
恋敵──当の本人が大爆笑で否定すること、間違いなしなのだが──に庇われたのだから。
しかし、だからといって桜子には現状を崩すつもりはないようだった。
一時的ではあれ朱蘭を行方不明にしたその元凶が、自分なのだとはさすがに告白できないのだろう。
苛立ちを表すかのように、爪を噛みかけ、思いとどまる動作を時折繰り返していた。
誰かなんとかしてくれ。
祈る気持ちでさ迷わせたまさみの視線の先に、不機嫌に見える無表情でじっと少女を見下ろす青年がみえた。
無言で訴えるこちらの視線にも気づかない。青年は観察するような眼差しを少女に向け、そしてなぜか溜息を吐き出した。
と、不意打ちで青年がこちらを見る。驚いて椅子から転げ落ちそうになるまさみを、桜子が冷やかな目を向けてきた。
「あんた、それ、くれ」
なんとか姿勢を戻したまさみに、由暁が近付く。端的な言葉とともに右手が差し出される。
意味がわからずただ青年を見上げたまさみの、腕の中を指差し、由暁は具体的な台詞を口にした。
「上着、着ないんだろう。少し貸してくれないか?」
ぶっきらぼうに紡がれた言葉が脳に届くより前に、まさみは由暁に上着を差し出していた。
何に使うか判らないまま差し出したソレを、軽く頭を下げて受け取り、由暁は再び少女の側へと戻る。
「これを着ろ」
体育座りで膝に顔を埋める朱蘭の正面に立ち止まり、由暁は無造作に彼女の頭に上着を落とす。
あいつから借りた。これなら着れるだろう?
顔を上げない少女は頭から上着を被せられる。
何がどうなっているのかわからないまさみの前で、少女は被った布を手探りで取り払い、顔を上げる。ようやく表情を顕わにした。
「何のつもりだ?」
尖った眼差しをそのままに、朱蘭は由暁につっかかる。
「みていて寒い。安心しろ、俺のじゃない」
「寒いならお前が着けろよ」
剣呑な空気が漂う。いっそう呼吸が苦しくなる状況に、まさみは泣きたくなった。
が、最悪なはずの状況をますます悪化させるように、それまで沈黙を守っていた美女が参戦した。
「いい加減にしてください」
ああ?
眉間にしわを寄せ、顎を引き上げ、朱蘭は美女にガンを飛ばした。本日はじめて美女を真正面から捉えた少女の
瞳は赤い炎がこれでもか、というほどに燃え盛っていた。
桜子が唾を飲み込む音が聴こえる。
己を奮い立たせるように形の良い指をきつく握り締めながら、桜子は立ち上がる。
限界まで引き上げられた眉。朱に染まった頬。噛み締められた唇から、上擦った声が紡ぎだされた。
「由暁様はあなたが心配で一睡もしていないんです。それなのに、あなたは……」
ヒステリック手前の声に、朱蘭の顔が不快げに歪む。
「だから? あんたには関係ないだろ」
素っ気ない口調の中に滲む拒絶が、桜子をよけいに興奮させた。
関係大ありだと宣言し、桜子は問題発言をぶちまけた。
「貴女をこんなにも思ってくださる方は他にはいらっしゃらないかもしれなくてよ!」
貴女にはもったいない方ですわ。
由暁が朱蘭に気があるのだと言わんばかりの言葉に、朱蘭の目が怒りを忘れて点となる。
「はぁ?」
同じくまさみの目が大きく見開かれる。信じられないと目を由暁に移すと、青年は絶句したまま動かない。
「あんなにも貴女を心配して……。そこまで想われていて、どうしてそんな態度が取れるんですの!」
3人の反応にバカにされたと思ったのか、桜子はなおも言葉を続ける。
が、桜子が続ければ続けるほど、さきほどとは違う妙な空気が流れた。
と、突然、掴みかからんばかりの勢いで迫っていた桜子の真正面で笑い声が起こった。
「あーーははは。おかしい。おかしい」
ばんばんばん! と激しく床を叩き、朱蘭が笑い声をあげる。
その横では嫌そうに顔を歪めた由暁が、転げ回る少女を見下ろしていた。
「何がおかしいんですの!」
顔を真っ赤に染め、桜子は腹を抱えて転げ回る朱蘭を見下ろした。揺れる船内にしっかりと足を固定し、
美女は腰に手を当て、怒りの炎を瞳に宿す。
「だって、だってこれが笑わずにいられるかっての」
由暁、あんた、お嬢さまと一緒にいて何にも話さなかったのかよ。
「何がですの!」
「だって、だって……」
笑いの間から何かを言いかけるが言葉にならない。ますます怒りに顔を歪める桜子を見上げ、
隣の由暁が仕方なさそうに、真実を告げた。
「おれとこいつは兄妹だ」
「兄妹ですって!」
「そう、母親違いだけど、兄妹だよ。はーおかしい。だからありえないよ、そんなの」
説明の短い由暁の言葉に、笑いながら朱蘭が付け足す。
「そんなわけありませんわ。だって……」
あんなに取り乱したのだ。妹相手にあんなに取り乱すだろうか。不自然だ。
第一、なぜ、妹を立てる必要がある? あのキスだって。
納得がいかない桜子はなおも食い下がる。
「心配するのはそいつの仕事だからだよ」
へぇ、取り乱したんだぁ。見たかったなぁ。
にやり、といつもの笑みに戻った朱蘭が、笑いを収め、由暁をみやる。青年は苦虫を噛み潰した顔のまま、そっぽを向いた。
「子分が親分の身を心配するのは当たり前だろ? で、親分の言葉には従う。これって全然変じゃない」
当然のことだ。
至極真面目に言い切って、朱蘭は、な? と傍らの青年に同意を求めた。
「なんですの? 親分と子分って。どういう意味ですの!」
まったく判っていない美女は声をはりあげた。
「そのまんまの意味。おれたちカタギじゃないの。判った?」
だからこいつは諦めろよ。
説明のようで説明になっていない朱蘭の言葉に、桜子はほえた。
カタギじゃないってなんですの!
「私は諦めませんから!!」
理解できないままに瞬時にして間に壁を作られてしまった桜子は、本能のままに拳を握り締め、叫んだ。
「絶対に諦めませんわ!」