天使のいたずら




「ふぁ〜」
 朝の木漏れ日がカーテンの隙間から少年の寝ているベッドに入り込む。春の日差しはとても柔らかく、欠伸をしていてもどうやら起きることは難しいらしい。少年はベッドの中でしばらくもそもそしていた。
 窓はなぜだか開いており、優しいそよ風が部屋の中を我がもの顔で駆け回っている。
 またひと吹き。風が部屋の中に入り込んでくる。その拍子にカーテンが開き、太陽の光で薄暗い室内がいっきに明るくなった。
 光の眩しさに耐え切れなくなったのか、少年は温かいベッドから未練がましく上半身だけを起こした。
 大きな伸びを一つし、欠伸をかみ殺すと観念したようにベッドから離れた。
 まだ寝ぼけているのか、よほど良い夢を見ていたのか、とろ〜んとした瞳のまま、少年はしばらくボーとしている。
 夢と現実の区別が今ひとつはっきりしていないらしい少年の耳に、一瞬で現実に戻ることのできる効き目ばっちりのなじみの馬鹿でかい大声が聞こえてきたのは、次の瞬間だった。
「お〜い。 馬鹿亮平! 起きんかい! 今何時やと思ってんねん。遅刻する気ぃか! 何ぼさっとしてんねん! 置いてくで」
 関西弁なまりのよく通る中性的な声が、ご近所を駆け巡る。
 近所迷惑かとさえ思える大声は、いつの間にか今ではご近所中の目覚まし代わりとなっていた。
 亮平は声に反応するように、バシッと軽く顔を叩く。眠気が覚めたすっきりとした顔で心地よい風が入ってくる窓に歩を進めると、上半身裸の格好でベランダへと飛び出した。
「ちょっと待て! 今すぐ準備するから……」
 大きな声で亮平は下にいる少女に呼びかけ、そのまま部屋の中へと引っ込む。
 ベランダの真下では、セーラー服の少女がなにやらぶつくさと文句を言いながらも少年が降りてくるのを待っている。
 ショートカットの髪を風に踊らせながら、少女は真っ黒に日焼けした腕にはめた男もののようにごつい時計と睨めっこしていた。
「遅刻するのは嫌やから、悪いけど先、行くで!」
 待ちくたびれたのか、少女は頭上の亮平の部屋に向かって怒鳴るように声を投げると、スカートの裾を翻し、風のように去っていった。
「おい! 待てよ! ちぐさ! おいっ!」
 着替え途中の上着を引っかけたままで、室内を落ち着きなくうろちょろしていた亮平は、少女の声に慌ててベランダへと飛び出した。
 柵に身を乗り出して、亮平はしきりに少年のような少女を探す。しかし、あまり視力の良くない彼の瞳で少女の姿を探すことはとうてい無理なことだった。
 亮平はすぐに少女を探すことを諦めると室内に戻った。ベッド脇に置いてある黒塗りのデジタル時計に目を向ける。
 時刻は午前8時30分。
 自転車で全速力で走っても完全に遅刻であることは明らかだった。
「……ったく……また遅刻だ……」
 ひとり残された亮平は、捨てられた子犬のような瞳で、消え入りそうに呟く。
 遠くから遅刻者への警告のためのチャイムが風にのって微かに耳に聞こえてきた。


「……痛いなぁ。何するんや!」
 昼休みの平和なひとときである弁当の時間に、不意をついて後頭部を殴られたちぐさは、とっさに寝癖のついた頭をお箸を持った手で庇った。
 その彼女の弁当の、今日最大のご馳走であると彼女自身思っている母親手作りの特製野菜コロッケに手を伸ばしたのは、殴りつけた本人であるところの亮平であった。
 ──取られたらあかん。
 思ったと同時に、ちぐさはすかさず亮平の手から弁当箱を遠ざける。おまけとばかりに彼の手の甲を思い切りつねることも忘れない。
「痛っ……ったく……いいじゃねぇか、コロッケぐらいよぉ……」
 赤く腫れ、痛む手の甲を撫でながら亮平は口を尖らせて、もう一度、弁当箱へと手を伸ばした。目指すものはもちろんコロッケである。
「やらへん! わいの好物なんや。誰がやるか!」
 ──知っとるくせに!
「いいじゃねぇか。コロッケのひとつやふたつやみっつやよっつ」
「イヤヤ! やらへん!」
 ちぐさも亮平に負けずに言い返すと、今度は亮平の顔に平手を飛ばした。
 亮平はすんでのところでかわすと、教室中のガラスがビリビリと震えるほどの大声で叫び返す。
「なにするんだ! この俺様のかっこいい顔に傷でもついたらどうしてくれるんだよ! お前が責任とってくれるのか」
「誰がかっこいいいやて? ほぅ、自分か? 自分が美男子なら、わいは絶世の美女やないか」
「どなたが美女? はぁ、貴女様ですか? おまえみたいなぶっさいくでちびが美女なら、世界は終わりだな」
 室内に二人の声が響き渡り、いつの間にか二人の周りには野次馬たちの三重もの輪が出来上がっていた。
「わいを怒らせて、ただで済むと思うな!」
 真っ赤な顔したちぐさが叫ぶと、取り囲む生徒たちは好き勝手に野次を飛ばし、二人の喧嘩をあおっていく。
 喧嘩の原因となったコロッケのことなど、二人の頭の中からはきれいさっぱり消えてしまっている。お互いが目前の敵を全身で威嚇することだけに夢中になっていた。
 ひと振り。ちぐさは強烈な一発を亮平の右頬に叩き込み、余裕のある顔で頬をさすっている亮平の顔を睨んだ。亮平もちぐさに目線をあてたまま、にやりと口元だけで笑う。
「今度は俺の番だ」
 亮平はこぶしを握り締めると、ちぐさの顔めがけて振り下ろした。
 しかし、ちぐさは苦もなくすべてのパンチを身軽く避けた。相手の行動パターンなど読みきっている。
 亮平は歯軋りし悔しがると、今度は彼女の弱点である足の攻撃に移った。もうちぐさをどうやって負かすかしか彼の頭の中にはなかった。
 ちなみにいうと、二人の対戦成績は115戦中43勝44敗28引き分けでわずかながら亮平の負けがこんでいる。
「亮平のど阿呆! それは卑怯やで!」
 急に足を狙われたちぐさはバランスを崩すと、目の前の卑怯者に向かって精一杯の罵声をぶつける。完全に形勢は逆転しており、ちぐさは不利な状態になっていた。
「ケンカに卑怯もくそもあるか! やられたら負けだ。それが勝負ってもんだろう! 男なら男らしく覚悟を決めろ!」
 ちぐさの罵声を聞き流しながら、亮平は余裕顔で彼女の足を狙い続ける。
「わいは男やない! 女や!」
 顔を真っ赤にさせて怒り出すちぐさを、亮平は執拗に攻め続けた。少女は怒りのために我を忘れ、夢中になってスカートをまくしあげる。そしてとうとう亮平自慢のサラサラヘアーに掴みかかったのである。
 こうなると教室内は収拾がつかなくなる。生徒たちは口笛を吹いたり、教科書を投げたりと白熱する二人の喧嘩をいっそう煽り立てた。全体が異様な盛り上がりを見せ、それぞれが双方の応援に夢中になっている。
 しかし、台風の目に位置する二人は、生徒たちの視線や野次などまったく眼中にない。それどころか、観ていて恥ずかしくなるくらいの低レベルな争い(罵詈雑言等)を繰り広げているのである。
「やめなさい! ふたりとも」
 目を覆いたくなるような凄まじい喧嘩の真っ只中の教室に、次の瞬間、場違いなほどの恐ろしく涼やかな声が投げかけられた。とたんに三重もの壁を作っていた生徒たちが一斉に入り口に立つ声の主を見やった。みな一様に不満そうな表情を浮かべ、小さく一言二言ぼやきながら、声の主のために道を作る。
 生徒たちの非難を全身に浴びながら、声の主であり学園きっての才女ともとはやされている少女は、優雅な足取りで台風の中心へと近づいていく。
「やめなさいったら!」
 少女の登場に気づかず、いつまでも低レベルな争いを続ける二人に声を投げる。が、二人が気づく様子はない。
 少女は少々呆れ顔で、喧嘩の真っ最中のふたりの後頭部を拳骨で力いっぱい殴りつけてやった。
「何するんや!」
 喧嘩の熱が冷めやらないちぐさが、左手でこぶしを握ると、ぱっと後ろを振り返った。
「なにするんや! じゃないでしょう?」
  振り返ったとたん聞こえた(これ以上ないくらいの笑顔のおまけつきの)声で、ちぐさは殴った犯人に気づくと、勢いで出した左手を慌てて背中に隠した。亮平に向かって蹴り上げる寸前だった足も素早く戻すと、乱れた制服を直し始める。
「まったく。何度言ったらわかるのよ! あなたは仮にも女の子なのよ!」
 ちぐさの格好を改めて見つめながら、少女は頭ごなしに彼女を叱りつける。
 ちぐさはぶつぶつと口の中で言葉を返したが、背筋が凍りつくような少女の視線を感じ、沈黙した。
 少女は彼女のその態度に満足したのか、前髪をかきあげると、うんうんと頷いて彼女への説教を切り上げた。
「それより。私が何の用で来たか、解る?」
 当然知っているわよね……?
 声には出さずに呟く少女の言葉に内心ドキッとしながら、亮平とちぐさはお互いに顔を見合わせる。
「すっかり忘れていた。とか……」
 クスッと不気味な笑みを向けられて、困惑しきった顔でちぐさが恐る恐る口を開く。
「何の用で来たか言われても……」
 わからへんものはわからへんのに……。
 口を尖らせて反抗しようとするちぐさの額を、少女はパチンと軽く叩き、大仰に驚いた顔をみせる。
「本当に? 本気でわからないって言っているわけ?」
 不気味に微笑む(表向きは特上スマイルなのだが)少女を視界の端に引っかけたまま、ちぐさはその言葉の意味を考え始める。
 ──この間借りた100円はちゃんと返したし……遅刻だって最近せえへんし……へまだってやった覚えないし……あれ? なら何で来るんや? おかしいなぁ。
 しきりに首を捻りながら考え込むちぐさを、怒りを通り越した呆れ顔で少女は見下ろす。
「本当に忘れているなんて……」
 しょうがない人だといわんばかりの声である。が、ちぐさは身の覚えがないといった顔をしながら、それでもまだ考え込んでいる。
 馬鹿とは付き合っていられないといった感じで肩を軽くすくめると、少女は亮平へと視線を移した。
「ちぐさもちぐさなら、亮平も亮平なんだから。朝っぱらから遅刻はするは、大事な委員会はサボるは」
「……冴子……それは……」
「もう十分だってことよね! そうよね。、もう私が補佐なんてしなくても十分やっていけるわよね。なんだって仕事はこなせるわよね! そうよね」
 うん、きっとそうよ。そうなんだわ。それなのに私ったら小姑みたくがみがみやって。性格悪いみたい、いやだわ。それならそうと言って欲しいわよ、と勝手に結論を出す冴子。対して亮平は顔を青白くさせつつ、引きつった笑みを浮かべて必死に媚を売ろうとする。
「なんたって誰からも好かれる人気者の生徒会長様ですものね」
 救いの手はいくらでもあるものね。
 「人気者」と「生徒会長様」を強調し、皮肉の香辛料をたっぷりまぶした言葉を冴子は投げつける。繰り出される言葉の攻撃に、亮平は身体を徐々に小さく丸めながらも、反抗的な目で彼女を睨み返した。
 しかし、そんな小さな反抗が、この悪魔のような少女に効くはずもない。これでもかと出刃包丁サイズの嫌味を整った唇から紡ぎだすのだ。
「どうしたの? 生徒会長様? 何か言うことは?」
 もう勘弁して下さいと顔に大きく書いてある亮平を、冴子は見て見ぬふりをして続ける。彼を楽しんで痛めつける彼女の姿は、第三者からみても悪魔以上のものに感じられただろう。
「もう、ええやんか。なっ冴ちゃん。亮平のやつ、十分反省しとるようやし」
 子犬のような亮平の姿に、喧嘩のことも忘れてちぐさが助け舟を出す。
 その瞬間、しょぼんとしぼんでいた亮平の顔がぱっと明るくなる。
 亮平のほっとした表情に、冴子はほんの一瞬だけちぐさに険しい視線を向けたが、すぐに表情を和らげる。苦笑とも失笑ともつかない笑みを口元に浮かべ、手近にあったちぐさの頭をポンッと叩いた。
「次は忘れないでほしいわ。あなたもよ、副会長さん」
 亮平に(後半はちぐさに)言葉を向けると、冴子は登場と同じく優雅な足取りで、教室から姿を消した。
 冴子が背中を向けた一瞬、亮平は彼女の背に天使の翼のような白い何かをみたような気がして、思わず目をこすった。
 が、確認しようと再び目を向けたときには、すでに冴子の姿はそこにはなかった。
 ──気のせいか……それとも冴子が? まさかな……。
 一瞬よぎった思いに心を馳せながら、亮平は冴子が出て行ったドアの向こうを長いこと見つめていた。


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