天使のいたずら




 「おい、こら! 起きろ! 起きなさいってば!」
  いきなり鼻を摘まれ、驚いて飛び起きた亮平は、そこに見慣れない少女がいることに気づいた。
  ? と思いながらも、亮平は少女の顔をじっと見つめる。
  対して少女は亮平の視線を正面から受け止め、にっこりと微笑み、一言、明るく涼やかなソプラノで彼の視線に応えた。
 「ちゃおぅ。久しぶり」
  語尾に大きなハートマークが付きそうな馴れ馴れしい言い方に、亮平は軽いめまいを覚えた。
  ──どっかで会ったか? けど、見覚えないしな。
  もう一度目の前の少女を見つめる。
  ──覚えないよな。やっぱ。会ったら忘れないしな、こんな可愛い子。
  もしかしたら人違いなのかもしれない、と思いながら、亮平は目前の美少女に尋ねてみることにした。
 「君と会ったこと、あったっけ?」
 「覚えてないの? もっとよーく顔みてよ! か・お!」
  怒り出しそうな少女の声に少々おびえながら、亮平は言われた通り、彼女の顔を凝視した。
  しかし、どう考えても見覚えなどない。
 「そっかぁ。あの時よりすっご〜く美人になってるからね。わからないのも無理ないわね」
  困った瞳で見返してくる亮平を完全に無視しながら、少女は好き勝手に解釈をする。
 そういう部分は誰かに似ているよな、と働かない頭で考えながら、亮平はベッドの上で正座の姿勢を取っている。
 「それなら……自己紹介をすれば、思い出してくれるかしら」
  突然ポンッと手を叩き、いいことを思いついたと、少女は亮平に向き直る。
  同意を求めているのかいないのか良くわからない言葉を向けられ、亮平は困惑しながらもとりあえず頷き返した。
  逆らうとどうなるかわからないと思ったのかもしれなかった。
 「名前はナスティー、今年で16歳の絶世の美女! 生年月日は……」
 「もういいよ。名前だけで十分だから!」
  このままだと夜が明けるまでしゃべり続けそうなナスティーの様子に、亮平は欠伸をかみ殺しながらストップをかけた。
 「じゃあ、私のこと、思い出した?」
 「待った! 今、思い出すから」
  嬉しげなナスティーの唇に人差し指を当てながら、亮平は記憶を引き出し始める
  亮平の頭の中では次々と女の子たちの名前が浮かんでは消え、消えては浮かび、を繰り返す。が、結局、ナスティーの名前は引っかかってはこなかった。
 「やっぱり人違いなんじゃ……」
 「いいえ。人違いなんかじゃない! 絶対にあなたよ! 赤城亮平よ!」
  俺の名前、知っている?
  目を丸くする亮平を得意げに見下ろして、ナスティーは機関銃のごとき勢いで、再びしゃべり出す。
 「知っているわ。あなたのことなら。名前は赤城亮平で、16歳。血液型はB型。誕生日は10月10日のてんびん座。好きな女性のタイプは高木美保……」
 「あぁー、もういい。もうやめろ! もういいったら」
  慌ててナスティーの口を右手で塞ごうとする亮平を、少女は悪戯っぽい目で見つめる。その瞳には満足げに輝いていた。
 「ふぁふぁってふへぇた?」
 『解ってくれた?』
  口を塞がれていながらも、声を発する。
  人違いじゃないでしょ?
  言外にそう告げて、ナスティーは口を覆う亮平の手を引き剥がした。
 「ああ、人違いじゃなさそうだ」
  頭を乱暴にかきむしりながら、亮平は諦めのにじむ声で答える。
  ──どこで会ったかは知らないが、まぁ、いいか。可愛いし……。
  亮平は瞬時にして結論を出すと、少女に笑顔を向けた。しかし、彼女は何を思ったのか、ふふっと小さく笑うと、とんでもないことを言い出したのである。
 「それはO.Kの返事と取ってもいいってことかしら。まぁ、記憶があやふやなのは多少問題はあるけれど、10年も待っていたんですもの。十分よね。当然結婚して下さいますよね? 約束ですもの」
  私と一緒に来てくださいますね?
  一瞬、何を言われているのか理解できなかった。
  悪魔のような台詞だけが、亮平の頭の中でこだまする。気分は地獄に送られた罪人のようである。
 「今、なんて……」
  言ったんだ?
  声にならない言葉を察して、ナスティーは今度はゆっくりと最後の部分を繰り返した。
 「結婚してくださいますね?」
    反射的にYESと答えそうになって、亮平は慌てて口を引き結んだ。
  それでも少女はしつこく言葉を繰り返す。
  彼女の声に重なるように、瞬間、亮平の記憶の中から幼い少女の声が聞こえた。同時に今よりずっと幼い自分と小さな女の子の姿が鮮明に脳裏に蘇った。

 『大きくなったら、亮ちゃんのお嫁さんにしてくれる?』
  まだあどけない少女の声。
 『うん、いいよ』
  舌足らずな幼い男の子の返事。

  その声が誰のものであるか、亮平は知っている。
  ──うそ、だろう……。馬鹿馬鹿しい。あんな子どもの約束、信じるなんてどうかしている。きっとこいつ、ちぐさあたりからでも聞いてきて、俺をからかっているだけなんだ。
  驚愕と少女への疑惑が亮平の中で交錯する。
 「嘘だろう……まさか、君のはずがない。だって……あの時の子は羽が……背中に翼があった……」
  だから君じゃない。
  いきつく答えをすべて否定して、亮平はうめくように呟いた。
  亮平の呟きに、ナスティーは嬉しげにうんうんと頷く。同時に彼女の背中から月光を紡ぎだしたかのような巨大な翼が、徐々にその輪郭を浮かび上がらせる。
 「あの時の……? 本当に……?」
  かすれた呟きが亮平の唇からもれた。
  目の前には初恋の少女。きっと間違いない。けれど……。
  突然現れた少女への、よくわからない恐怖感が亮平の中では生まれていた。複雑な感情のまま、どう接していいかわからず、亮平は黙ってしまった。
  消えては浮かぶ複雑な感情を宿す瞳をただ少女に向け、しばらくして亮平は重いため息をついた。
 「思い出した。君があの時の子だって思い出したけど、だからってはいそうですか、わかりましたってすぐには言えない」
  突然来られて言われても、こっちにはこっちの事情ってもんがあるんだからさ。
  長い沈黙の後、少女の機嫌を損ねないように、やんわりと断りの言葉を口にする。相手は少女といえども天使だ。怒り狂って妙な力でも使われたらただの人間である自分は対処のしようもない。なにをされるかわかったものでもない。それだけは避けたかった。
  あまりの緊張に息が詰まりかけて、亮平は目線を少女からはずし、床へと向ける。読んだまま片付けていないスポーツ雑誌が目に飛び込んできた。表紙には海外移籍で話題のサッカー選手が映っている。
  不意に、天使が何かを発した。聞き逃した亮平は表紙の人物から天使へと目を戻す。
 「……はね……」
 「え?」
 「私はね、10年も! 10年も亮ちゃんと会う日を楽しみに待っていたのに! それなのに……それなのに……」
  目を潤ませたナスティーに、ギョッとなって後退る。
  急速に膨らむ恐怖と不安に、心臓を鷲掴みされたような感覚に襲われた。目が自然に彼女の背後のドアに向けられる。額にはいつの間にか大粒の汗。
 「けどな、だからといってすぐに結婚って、早すぎやしないか? 俺は今、君のことを思い出したばっかりだ。俺にも俺の事情がある。それに、結婚ってお互いの合意の上でなきゃ成立しないものだろ」
  慎重に、言葉を選びながら天使を諭す亮平の声は、情けないほどに弱いものだった。
 「じゃあ、もう一度、亮ちゃんに訊くわ。私のこと、嫌いなの?」
  大粒の涙を浮かべ、天使は切々と亮平の胸に訴えてくる。
  ──だから、そういう問題ではなくて……。
   「そうじゃなくて」
  髪を派手にかきむしって、亮平は心臓に悪い天使の瞳から目を逸らした。
  汚い! 汚すぎる! 女の涙は武器というが、なまじ本物の天使がそれをやるから、罪悪感は2割増だ。彼女の前に身を投げ出し、懺悔をしたくなる衝動を抑えて、亮平はなんとか首を横に振ることに成功する。
  そして精神力すべてを総動員して戦いを挑むように天使に向き直った。
  ──冴子なら、うまくやれるだろうに。
  冷めた部分でそんなことを思って、亮平は苦い笑みを浮かべる。今ここにいない人間に頼っても仕方のないこと。状況が変わるわけでもない。
  いつの間に拭ったのか、天使の頬に流れていた涙の跡はなくなっていた。
 「じゃあ、どんな問題なのよ!」
  癇癪を起こした子どものように、いやいやと首を振りながら、天使は亮平を睨みつける。
 「好きとか嫌いとか簡単な問題じゃないんだ。小さい頃、約束したかもしれない。けど、今は俺にはやらなきゃならないことだってあるし、それをすべてほっぽりだして君と行くなんてできないんだ。今すぐ結婚なんて無茶苦茶だよ」
  第一、結婚なんて早すぎる。
 「じゃあ、やらないといけないことを片付けたら一緒に来てくれるってこと?」
 「そんなに簡単にはいかないだろ。君のことも良く知りもしないし」
  引き下がってくれない天使に、疲労だけが溜まっていく。
 「一緒にいれば、だんだんわかってくるわ」
 「一緒にいても全然わからなかったら? 一緒にいるだけ無駄じゃない?」
 「……ひどい……どうしてそんなこと言うの? やっぱり私のこと、嫌いなんでしょう? こんなに美人なのに……こんなに亮ちゃんのこと、好きだって言っているのに……これから先、亮ちゃんのこと、好きになってくれる人が現れないかもしれないのに……」
  そのままその場に泣き崩れるように座り込んだ天使に、亮平は再び罪悪感に襲われる。
  ナスティーの最後の台詞はよけいなお世話だと感じながらも、少し言い過ぎたかもしれない、と思った。
  手近にあったタオルを取り上げ、天使に近づく。
 「ごめん。俺、言いすぎた。だから、泣くな。な、ほら、これで拭けよ」
  天使にタオルを差し出しながら、目は窓の外に向けられていた。
  窓の外は漆黒の闇。夜が明ける気配はまだない。
 「……きな人が、いるんでしょう?」
 「え?」
  タオルを手にうつむいたまま、天使は言葉を紡いだ。
 「好きな人がいるんでしょう?」
  反射的に問い返した亮平に、今度ははっきりとした口調で問いかける。顔をあげ、視線をまっすぐに亮平に向けて。
  しばらくの間、なんともいえない沈黙が室内を満たした。瞳と瞳がぶつかる。
  数秒の沈黙。
  最初に視線をはずしたのは、亮平だった。
  天使はそれを答えとしたらしい。
 「好きな人がいるんだ。そうなんだ……だから、一緒に行きたくないのね」
  得心がいったと頷く天使の瞳に奇妙な光が閃き、消える。
  亮平は気づかない。
 「そんなこと……」
  ないっと否定しかけて、亮平は口をつぐんだ。脳裏に顔をあわせれば喧嘩しかしない幼馴染の少女の顔が突然浮かんだからだ。
  なんだ、今の……? まさか。
  あまりの唐突さに我を忘れて、亮平は呟く。
  呟きは何度も繰り返され、衝撃はその度に増していった。
 「この二人の、どちらかってことかな」
  気づくと、いつの間にか、天使は窓際の机の側に立ち、写真立てを手にしていた。机の上の唯一の飾り物であるそれには、文化祭の時だったか、両手に花状態のちぐさ、亮平、冴子の3ショットの写真を入れてあった。
 「それ……」
 「私は、こっちの方かなって思うのよね。こっちの私より劣るけど、美人な子の方。私に似ていなくもないし。で、亮ちゃんはどっちが好みなの?」
  天使は写真立てをひらひらとさせながら、意地の悪い笑みを浮かべる。
 「どうでもいいだろ。とにかくそれ返せよ!」
  伸ばした亮平の手をピシャリと叩いて、天使はわざと彼の目線の高さに合わせ写真立てを掲げた。
 「やーよ。素直に教えてくれたら返してあげてもいいけど、亮ちゃん言わないでしょ?……そうね、意外性でこっちの男の子っぽい娘(こ)ってこともありえるわね」
  亮ちゃんの性格では、こっちの方を好きになっていてもおかしくはないかも。
  当の少女がこの場にいたら、喧嘩になりかねない一言(男の子発言)を天使は口にする。もしかしたら、それは彼女の作戦のひとつだったのかもしれない。
 「返せよ! 悪かったな男の子っぽくて」
  まんまと天使の作戦にはめられたことにも気づかず、亮平は向きになって彼女の手から写真立てを奪おうと手を伸ばす。
  その行為がすべてを語っていると彼が果たして気づいているのかどうか……。
 「へぇー図星か……。どこがいいのかしら……まぁいいか。そうね、じゃあ、こうしましょう。亮ちゃんがこの娘を振り向かせることができたら、私、諦めるわ」
 「は?」
  突然の話の展開についていけず、亮平は間抜けな声を上げる。
 「だ・か・ら」
 「だから?」
 「この写真は返してあげる。亮ちゃんの意中の相手がわかったわけだし。で、取引しない?」
  謎めいた光を放つ天使の瞳を警戒心剥き出しで亮平は見上げる。
 「取引?」
  危険信号大放出のこの状況で、しかし亮平はおうむ返しをするだけで、それを拒もうとはしなかった。
 「そぅ、取引。亮ちゃんはその娘と離れたくないから、私と結婚したくないのよね?」
  どうしてそう話が飛躍するのだろう?
 「別にそういうわけではだな……」
  亮平の言葉を最後まで聞かずに、天使は勝手に話をすすめる。
 「だけど私は亮ちゃん以外の伴侶は考えられないの。だからね、こうするのよ」
  焦らすようにいったん言葉を切って、天使は亮平の顔を覗き込む。
 「だからどうするんだって訊いているだろ」
 「慌てないで。だから、亮ちゃんがこの写真の娘を振り向かせる、つまり貴方と彼女が両思いになったら、私は貴方を諦める。天使がむりやり好きあっている二人の仲を裂くわけにはいかないじゃない? だから上手くくっついたら私は諦めるわ。その代わり、それができなければ、私と一緒に私の世界に行く。これでいいでしょ?」
  これで気持ちの整理をつけることもできるわ。
 「ちょっと待てよ! 俺の気持ちを無視すんなよ」
 「あら? そんなことが言えたご身分? 10年も想い続けている一途な少女のこと、全っ然! これっぽっちも! 覚えていなかった人が」
 「……わかった……その話、のもう」
  かなりの間を空けて、仕方なく亮平は天使からの取引を受けた。
 「わかって下さってうれしいわ。でも、もうひとつ」
  にんまり笑顔の天使は、楽しげに、実に楽しげに、まだあるのだと言い出した。
 「なんだよ?」
  眉をひそめ、嫌な予感に身震いする亮平に、天使は笑顔で頷く。
 「期限を決めなくちゃね。そうじゃなきゃ、取引は成立しないし、始まらないわ。ずるずるといつまでも待っていたら、私も行き後れになってしまうわ。私は結婚を諦める気はないのよ」
  ね?
  天使は言葉を切る。
 「ね? っていわれても」
 「でも、期限決めずにいつまでもずるずるとなんて私はいやよ。だから期限を決めるわ。10日でどう? うん、悪くないかも。あっでも10日じゃ長すぎるかしら?」
 「おまえなぁ」
 「あら? 文句が言えた義理? 私がこんな寛大になっているのに。じゃあ1週間にするわよ」
  恐ろしく冷たい声と視線に、亮平はふるふると首を振った。
 「10日でいい。10日で十分です」
  これ以上余計なことを言うと、不利になることを悟り、亮平はおとなしく従うことにした。
 「じゃあ決まりね。10日後までにこの娘に告白して、両思いになれたら私は諦める。出来なかったら亮ちゃんは私と一緒に来る。これでいいわよね」
 「ああ、わかった」
 「その言葉を聞いて安心したわ。じゃあ、10日後に会いましょう」
  その日が楽しみだわ。
  声には出さずに呟くと、天使は風のようにするりと消えていった。
  開け放たれた窓からはひんやりとした風が入ってくる。
  流れる空気に合わせて舞い降りてくる羽を呆然と見つめる。ひとり取り残された室内で、この世の不幸を一身に背負ったかのような少年は、がっくりと肩を落とした。
  重い、重いため息が響いた。


 「まったく。君は……」
  亮平の部屋から出て別空間に移動したナスティーを、呆れを含んだ声が迎える。
 「あらサーフェ、見てたの」
  相手の姿を認めて、ナスティーは驚くでもなく、パートナーたる青年に応える。
  唇を尖らせて拗ねた口調の相棒に、青年はただ笑みだけを返すのみ。慈しむような、それでいてどこか悲しげな笑顔。
  太陽を移したかのような金色の髪と純白の翼が、漆黒の闇の中で眩しく光を散らしていた。
  日光に当たったことのないような、白い透き通るような肌は、しかし病的な白さではなく、健康的な色をしている。
  綺麗な弧を描いた眉。優しげな光を湛えた切れ長の瞳。適度に高い鼻。薄い唇。そのどれもが完璧に配置されている。
  いつも見慣れているはずの彼女でさえ、しばし見とれるほどの美しさ。
  男性である彼にこれほどの美を与えるのは不公平だと、いつも抱く感想をまた胸に抱いて、ナスティーは顔をしかめる。青年に見惚れていた自分に気づいたのだ。
 「連れて帰ろうったって無駄よ! 私は帰らない。そんな顔したって無駄なんだから」
  フフンッと鼻で笑って、ナスティーは不機嫌そうにソッポを向いた。
 「心配していましたよ。パートナーたる私にさえ何も告げずにいなくなって。慌てましたよ。どこにいったのかとずいぶん探しました」
  柔らかな微笑を崩さず、静かにサーフェは言葉を紡ぐ。笑顔と同じ包み込むような声音。
 「心配ってどれくらい?」
  見上げてくるナスティーは親に甘える幼い子どものようで、青年は笑みをいっそう深めつつ、軽く首を傾げて考える仕草をする。
 「表現しきれないほどに深く」
  少女の満足する解答を口にして、青年はほんの少しだけ顔をしかめた。包み込むような優しい雰囲気はそのままで。
 「それにしても、下界に降りていたとは」
  思いもしませんでしたよ。
  ほぅと息をつきながらのサーフェの言葉に、責める響きはない。それほどまでにやんちゃな少女を愛しく思っているのだろう。
  が、ナスティーはそうとは受け取ってはいなかった。よほど後ろ暗いことがあるのか、今まで以上に顔をしかめる。
 「私がなにをしようが私の勝手でしょ。それに理由を言ったら、外に出してくれないでしょう」
  こうするしかなかったのよ。
  兄とも慕う青年を突っぱねるナスティーに、サーフェは当然だといわんばかりに頷いた。メッと軽く目を吊り上げながら。
 「当たり前でしょう。天使が人間にかかわって混乱を招いたらどうするのです? それに、人間との婚姻が許されるのは特別な場合のみのはずです」
  いくら婚姻が許される年齢に達したからといって、あまりにもせっかちすぎやしないか。何をそんなに焦っているのか。
  沈着冷静と天界でもっぱらの評判の青年は、彼にしては珍しいキツイ口調で少女を叱りつける。
 「あら、彼は特別な存在でしょ。サーフェ、貴方だって知ってるじゃない。私たちの力も借りず、たった一人で天界に現れたこと。それも2度も。それに何も知らない子どもだったけれど、誓ったわ。それは今でも有効のはずよ」
  だんだんと小さくなりながらも、ナスティーは反論を止めようとはしない。
 「だからといって、貴女はこんな手段をとってまで、彼を手に入れたいのですか? 早急に?」
  的を得た言葉が、静かすぎる空間を震わせた。
  卑怯だと彼はいう。それはナスティーにだってわかっていた。
  けれど……悔しさがこみあげて、知らず避けていた言葉が口をついて出た。
 「私はただ……」
 「ただ?」
 「彼にいじわるしたかっただけよ……だって、覚えててくれてると思ってた。私はずっと忘れずにいたのに。あんなに特別な思い出なのに……全然覚えていてくれてないんだもの。あまりにもひどいじゃない」
  ぽつりぽつりと吐き出しながら、足下をギィッと睨む。
 「それが、本音ですね」
  不意に呆れを含んだ声が聞こえて、ナスティーは顔を上げた。
  目の前に、やれやれと言いたげに肩をすくめるサーフェの姿がある。
 「それが本音なら、目を瞑りましょう。貴女は一度決めたら後には引かない頑固者ですし……。連れて帰ることは諦めます。気が済むまでおやんなさい」
  ただし、混乱を招き、害をなすようなら、強制的に連れて帰りますからね。
  苦笑を浮かべ、それでも瞳には包み込むような優しい光を宿したまま、青年は最後にくぎを刺す。
  長老たちには私から言っておきます。
  強制連行を覚悟していたナスティーは、拍子抜けしたようにポカンとパートナーを見上げる。
 「え? いいの? 本当に?」
 「帰りますか?」
  恐る恐る確認をとると、間を置かずに青年の声が降ってくる。
 「いいえ」
  反射的に答えを返して、少女は相棒の顔をまじまじと見つめた。
 「理解がありすぎるわ」
 「私は貴女には甘いですから」
  サーフェはにっこり笑顔を返すと、少女に背を向けた。
  今にも消えてしまいそうなパートナーの背中をナスティーは見送る。
 「ありがとう。愛してるわ。サーフェ」
 「そう思うならこんな特大のわがままは今回限りにして下さい」
  感謝の言葉を背中で受け取って、青年は振り返りもせずに最後の台詞を残し、音もなく消えた。
 「ありがとう」
  小さく呟いたナスティーの声が漆黒の闇に染みていった。
   
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