天使のいたずら
3
「おはよう!」
学校中が陽気な雰囲気に包まれる朝。教室中に響く大声でクラスメイトと挨拶を交わしながら、ちぐさが室内にやってくる。
悩みがまったくなさそうな元気で明るい声は、挨拶を交わすたびに亮平へと近づいていた。
少女の気配を感じて、亮平は深く息を吸い込む。しかしなかなか顔が上げられない。
足音が彼の席の前で止まる。
「おはよう。亮平。なにやっとるん?」
いつもの調子で、中性的な声が降ってくる。
机につっぷした状態の亮平は彼女の挨拶を後頭部で受け止めた。
ピクリとも動かない亮平に、ちぐさは眉を寄せる。
「亮平? 亮平。なぁ、どうしたんや? どういう風の吹き回しや? いつもは起こしても起きんくせに」
声のトーンを落とし、表情をわずかに曇らせ、言葉をかけるが、当の本人は彼女を見ようともしない。
心配されていることに気づかない──気づく余裕すらない──亮平は、顔を上げずに手をシッシと動かした。
「亮平?」
「……っさいぞ」
「なんや? 聞こえんかった。もう一度言うてみ」
「うるさいって言ってんだよ」
いつまでも自分から離れようとしないちぐさに苛立ち、亮平はとうとう顔を上げた。
まだ心の準備ができていなかったから見るつもりはなかった。それなのに顔を上げると少女の顔が思ったよりも近距離にあった。
心臓が口から飛び出るかと思うほどに驚いた。けれど実際に亮平が表に出した反応は強い舌打ちだった。
「なんでや? なんでそないに怒っとるんや? 昨日のことか? 自分、女みたいな性格してるんやな。いっぺん頭の中身みせてもらいたいわ」
亮平の想いに気づかず、能天気に好き勝手放題しゃべると、ちぐさは彼の後頭部を2、3度軽く叩いた。気遣わしげな表情のままで。
亮平はちぐさの台詞の意味を聞き取る余裕すらなかった。
それどころか、あと10日で目の前の少女に告白し、恋人同士にならなければいけないのだ。
昨夜。いや、日付が変わった直後のことだったから、正確に言えば今日。
あの邪気の欠片もなさそうな天使が、何の前触れもなく突然亮平の前に現れた。亮平自身を迎えに。
迎えを拒んだ自分にこう言った。
『貴方とこの娘が両想いになったら、私は貴方を諦める』と……。
眩しすぎる笑顔を自分に向けて。残酷なほど慈悲深い聖母のような声音で。何の企みも持たないというようなお綺麗な顔で。10日間の期限付きの取引を持ちかけてきた。
受けるしか他に道はなかったから受けたのだが、しかし……。
どうしたことかいつものペースが保てない。ちぐさだと意識しただけで、身体全体が妙な反応を示してしまう。昨日まではどうやって接していたのか、思い出そうとしても思い出せなかった。
調子が狂って真正面から少女をみれない。
「なぁ、ほんまにどないしたん?」
気遣わしげに至近距離でちぐさが亮平の顔を覗き込む。
突然の少女の行為に、亮平は妙な叫び声を上げて盛大に椅子から転げ落ちた。
「なっ……なっ……」
あまりのことに声が出ない。
「何が『なっ……なっ……』や。このどあほうが! そない大声出して、こっちがびっくりしたわ!」
「驚いたのはこっちだ! いきなり人の前に顔を持ってくんじゃねえよ! 心臓に悪い」
アップで近づいて来たちぐさの顔を視界から外して、亮平は裏返った声を発した。
心臓がかなり激しく鼓動を打っている。
「なんや? 今日の自分、ほんまおかしいで。どないしたん?」
怒り出すと思っていたちぐさの意外な反応に、おや? と思わないでもなかったが、亮平は彼女に視線を戻さず椅子を起こし、座り直した。
彼女のこの時の反応は、本気で自分のことを心配してくれていたのだと、あとになって亮平は気づいた。
「なんでもない! お前には関係ない!」
本当はものすごく関係があるのだけれど……。
顔が赤くなるのを感じながら、亮平は努めて不機嫌な声で答えた。
『好きらしい』と意識した途端、少女を正視できなくなってしまった自分に、亮平は胸のうちで舌打ちする。
──やばいな。
このままでは10日後には本当にこの世界から自分は消されてしまう。
亮平が吐き出したため息の先に、すでに人影はなかった。
いつの間にか居なくなってしまった少女の気配を追って顔を上げ、教室内に視線をめぐらせる。
「い……いた」
目が他の女子と話しているちぐさを捉えると、知らず安堵の息が洩れた。
「はぁ……どうやってあいつに告白すんだよ……」
誰の耳にも届かないほどの低い呟き。言葉と同時に亮平は再び突っ伏した。
「なぁ、冴ちゃん?」
一日の楽しみの一つである昼休み時間。
ちぐさは今朝の亮平の妙な態度を教えるため、冴子を訪ねていた。場所は彼女が好んで食事をする中庭。
「ん?」
やけに元気のない友人の声に、次にどのサンドを選ぼうかと思案していた冴子が、顔を上げる。
「なに?」
「今日の亮平、なんやおかしいと思わヘン?」
「どこが? 普通にみえるわよ。私には」
「そうかなぁ」
「どうしたのよ。いったい」
弁当の中身がいっこうに減る気配のない少女の様子に、怪訝な顔でさえ子が問い返す。
相変わらずちぐさは黒塗りの落ち着いた柄のお箸で、ご飯の中央にある梅干を突付いている。
「ん……」
「話してみなきゃ、わからないでしょ。そのためにここに来たんじゃないの?」
「うん。それはそうなんだけど……」
「だったら話してみなさいよ」
冴子がうって変わった優しい声音で促すと、ちぐさは持っていた箸をいったん弁当箱の上に戻した。ため息をついて身体を冴子に向け、話をする体勢に入る。
「亮平のやつなぁ」
「うん」
「朝から一度もわいの顔みようとせぇへんのや。なんでやと思う?」
「ちぐさがまたヘンなこといったんでしょ。それか昨日の置いてけぼりの件かけんかの件」
ちぐさの言葉であるていど原因を察して、冴子は興味が薄れたと気のない返事をする。サンドイッチを口に運びながら、視線は中庭の中央で円陣トスをしている一群に向けられている。
「そうやないんやて亮平言ってたんやけど。それに亮平が2日間同じことで怒っていることなんて、今までなかったことやで」
「それもそうねぇ……」
ちぐさの台詞の意味をなんとなく考えながら冴子は頷く。しかし目線は相変わらずバレーボールの一群に向けられたまま。
「なぁ。ほんまにちゃんときいてくれてるん? ほんとは聞いてないんと違う? 自分」
「聞いてるって」
「わいはなぁ、冴ちゃんが亮平のこと好きやと思うてるから訊いとるんやで。なぁってば」
思わず冴子の手から卵サンドが滑り落ちそうになる。慌てて卵サンドを持ち直し、動揺を抑えるように2、3度深呼吸をして、冴子はちぐさへ視線を戻した。
声のトーンを落として問い返す。
「何、ですって?」
妙に迫力のある冴子の声に、後ろに仰け反りながらちぐさは言葉を続ける。
「だから! 冴ちゃんが亮平のことが……」
「誰が、誰のことを?」
「え? だから、冴ちゃん、亮平のことがす……」
冴子の気迫に押されながらも音量を上げるちぐさの口を、あわてて少女は塞ぎにかかる。
突然の声に、何事かとこちらに目を向ける生徒たちの視線を笑顔でかわして、冴子はちぐさへと向き直った。
「ちょっと大声で言わないでよ!」
聞こえちゃうでしょ。
肩で息をしながら、冴子はちぐさの口を封じていた手をはがす。むりやり気を静めてから目の前の馬鹿を睨みつけた。
「……図星やないか……」
睨まれたちぐさが冴子に聞こえないように小さく呟く。
「わい、知ってたんや。冴ちゃんがあの阿呆のこと、一番理解してるのしっとったから、相談しに来たのに」
恥ずかしさで顔を真っ赤にしている冴子の心中を知ってか知らずか、ちぐさはぶつぶつと不平をもらす。その姿がなんとも情けなくも可愛らしくもみえて、冴子は目の前にあった友人の頭を軽く叩いた。
「やめ! わいはこどもやない!」
「あらぁ。拗ねている分、充分子どもじゃない。よしよし、ちぐさちゃ〜ん、拗ねちゃダメよぅ。お母さんが貴方の悩みを解決してあげますからね」
意識的に頭の中から亮平のことを追い払って、むきになる友人をからかう。
「あほか。ええかげんにしいや!」
ぷいっと横を向いたまま、ちぐさは凶器と化した箸を冴子に向かって振り上げる。
話題が明後日の方向へ逸らされていることも完全に冴子のオモチャにされていることも、彼女自身、幸か不幸か気づいていなかった。
「ちぐさってほんと、みていて飽きないわよね」
なんでも本気にしちゃって。退屈しのぎにぴったりだわ。ほんと。
勝手なことを言ってくれる冴子を睨みつけた時、ちぐさはようやく話題がはるか向こうに飛ばされたことに気づいた。
「冴……ちゃん?」
「なに?」
恨めしそうに見上げてくるオモチャの視線を冴子はにっこり笑顔で跳ね返した。
「亮平のことでしょ。わかってるわよ。あなたがあまりにもカワイイからついね。怒った?」
ごめんね。
全然気持ちが入っていないことは見ただけでわかる。
──しらじらしい。
大口を開けて笑っている悪魔を、ちぐさは横目で睨んだ。しかし相手は校内一の猫かぶり女。これくらいの小さな抗議ではビクともしない。
ちぐさがめげずに責める目で睨み続けると、悪魔は仕方ないっと肩をすくめて軽く頭をさげてきた。
「ごめんなさい。茶化して悪かったわ」
馬鹿だから気づかないと思った私が甘かったわ。
ため息を吐き出しての冴子の台詞に、ちぐさの眉がかすかにつり上がった。
「冴ちゃん、隠してたつもりやったんか?」
意外な言葉を聞いたとちぐさが思わず問いかける。彼女のよけいな一言は冴子のプライドをいたく傷つけたらしい。
「下から数えた方が早い成績の人間に、気づく頭があるとは思わなかったのよ」
実に実に冷ややかな口調に、ちぐさの顔が引きつる。
地雷を踏んでしまったっと悟ったがあとの祭り。
なぜ、彼女が怒り出したのか判らないまま、ちぐさは悪魔の報復を受けることとなった。