天使のいたずら




 「まいったなぁー」
  ふぅ……。
  ため息とともにらしくない言葉が口をついて出る。
  時刻は真夜中の2時を半分ばかりまわった頃。
  いつもなら、夢のひとつはみている時間だ。美容にうるさい母親の影響で就寝 時間が他人より2時間ばかり早い冴子である。身体に染みついた習慣はめったなこ とでは変わることはなく、この時間帯に起きていることは年に数回あるかないかの ことだった。
 「やだなぁ」
  寝なくては、と頭ではわかっているのだけれど、眠れない。昼間のちぐさとの やり取りが頭から離れないのだ。
  ふぅ……。
  何度となく呟いた言葉に、重い重いため息が重なる。
  幾ページにもわたる書類の文字を目で追いながらも、内容は頭には入っていない。
 『冴ちゃんが亮平のこと好きやと思うてるから訊いとるんやで』
  責めるような口調のちぐさの声が蘇る。
 「あなたはどうなのよ……ちぐさ……」
  知らず言葉が口をついて出た。当然ながら返る声はない。
 「どうなのよ……」
  姿の見えない相手に向かって恨めしい思いを込めて呟いた。
  あまりにも力のない自分の声に、不安が広がる。静かな水面に広がる波紋のように、 じわじわと冴子の胸に広がっていく。
  明日までに片付けなければならない分厚い書類の束を乱暴に脇に投げやって、 冴子は手近にあった枕を抱えた。
  揺れるレースのカーテンをぼんやり眺めた冴子の目に、何かがかすめたのはその瞬間。
  警戒しながらゆっくりとパイプベッドから身を起こし、閉めたはずの窓に向かう。 足音を立てないように気をつけながら。
 「誰かいるの?」
  揺れているカーテンの向こう側に硬い声を投げる。窓の外に人の気配はない。ないが、カーテンには人影が映っていた。窓の向こうは夜の闇が広がっているはずなのに。
  ごくり。
  唾を飲み込む。怖くないと言ったら嘘になる。けれど……。
 「誰かいるんでしょう? 覗き見なんて悪趣味なことをしないで、出てきたらどうなの!」
  声が震えないように腹に力を入れる。誰ともわからない相手に怖がっていると思われるのはしゃくだった。
  精一杯の台詞は夜の闇に吸い込まれ、静寂だけが辺りを包んだ。
  部屋の明かりが見せた錯覚だったのだろうか? いや、違うはず。
  乱れた髪をまとめてねじり上げ、手近にあったパレッタで留める。
  パッチリとした賢そうな瞳は、真っ直ぐに窓の外に向けられたまま。
  開いた窓の向こうからは不思議と何の音も聴こえなかった。虫の声ひとつしない。不安をあおる不気味な静けさがあるだけだった。
 「怖い怖い。わかりました。ご希望に沿わせていただきます。悪趣味だって言われてこちらも黙って引き下がるわけにいかないしね」
  冴子以外いないはずの空間に、突如、透き通るようなメゾソプラノが響いた。
  言葉と同時に、闇の中から14、5歳くらいの少女が現れる。
  深い深い海の底を思わせる蒼い瞳。
  形の整った赤い唇。
  声と同じく透き通るようなきめの細かい白い肌。
  その背に純白に輝く見事な翼。
  人間離れした美しさに、恐怖を抱かずにいられない。
 「あなた、誰? 何者?」
  言葉にした後で馬鹿なことを訊ねたと、冴子は後悔した。
  ──私としたことが。ほんと、今日はらしくない。
  相手に恐怖を覚えたとはいえ、なんていう陳腐な質問をしてしまったのか。
  人間ではないことは明らかだ。翼のある人間などいないのだから。
  自分の台詞に顔をしかめている冴子の正面で、天使は馬鹿にしたように鼻で笑った。
  人を見下した態度を平気でとる。隠そうともしないところが、引っかかる。誰かに似ている。似ていると思うと、なぜだか無性に腹が立ってくるのだが、なぜだろう?
  誰だったか、と考えようとして気づいた。自分に似ているのだ。
  冴子はますます苦虫を噛み潰したような顔になる。
  ──あー。やだやだ。私ってこんなやなやつなわけ?
  天使は人を小ばかにした笑みを浮かべたまま、無遠慮な目で冴子を見ていた。鴉の濡羽色の見事な黒髪に細い指を這わながら。
  そのなんでもないその仕草がとてもしゃくに障った。
  顔の造作、表情のひとつ、仕草のひとつ、どれをとっても気に入らない。
  絶対に気が合いそうにないな、と結論を出しつつ、冴子は仏頂面で少女の視線を受け止める。
不安と恐怖が入り混じった瞳を挑戦的な色に変えて。
  なにが面白いのか、天使はクスクスと実にかんにさわる笑い声をあげている。
 「なに? なんなのよ。あんた」
  機嫌は最悪だった。口調が自然とガラの悪いものに変わる。
  それでも天使は、冴子の神経を逆なでする笑いを収めようとはしなかった。
  ──ムカツク女。
  胸に落ちる感情。嫌悪感だけが増幅されていく。
 「で、何の用? こんな夜中に」
  嫌いな相手にわざわざ礼儀を尽くすのも馬鹿らしい。
  胸くそ悪い天使の相手で貴重な睡眠時間をこれ以上削るのは、もったいない気がした。
  枕もとが定位置となっているデジタル時計に目を向けると、時刻は3時まだあと1分というところ。
  ──寝なきゃまずいわね。
  闖入者のおかげで眠気はまったくおきないのだが、無理にでも眠ないと翌日母親から何を言われるかわかったものではない。
  話の途中ではあるがかまわない。嫌いな相手に対し礼儀を欠くことを痛むような良心は、持ち合わせてはいなかった。
  眠ってしまおう、そうしようと即決し、冴子は行動に移す。
 「理由なんていいわ。じゃあね」
  自分の放った問いかけを、自分で片付けて、冴子はベッドに戻ると頭から布団を被った。
  電気を消そうと布団から伸びた手がリモコンを引き寄せた途端、拗ねた声が降って来る。
 「ちょっと。せっかく私が来てやったのに、それはないんじゃないの?」
  責めるような響きの声に、リモコンを引き寄せる手が止まった。
  天使の台詞に眉根を寄せ、冴子は布団の隙間から相手を睨み上げる。
 「こんな真夜中に勝手に人の部屋にやって来て恩着せがましい言い方するの、やめてくれる? いつ、私が呼んだのよ」
  呼んだ覚えはない。第一こんな性格の悪い天使など絶対に呼ぶわけがない。ここまで相性が最悪な相手など。
 「勝手にって、あなたが姿を見せろっていうから出てきてあげたんじゃない。失礼ね、あなた」
  負けずに天使も言い返す。
 「失礼なのはどっちよ。初対面の相手に見下すような笑顔向けるあんたの方がよっぽど失礼よ」
 「あら、見下されているって思っているから私の笑顔がそう見えるんでしょ。そういうの被害妄想っていうのよ」
  あーやだやだ。僻みっぽいわね。
  ──なんですって?
  天使の台詞に冴子の目が限界までつりあがる。瞬時にして赤々と燃える炎が瞳に宿った。
  顔に大きく「見下しています」と書いておいて、いけしゃあしゃあと言えるその面の皮のあつさは失礼の度合いを超えている。
  この娘が天使だというのは何かの間違いなのではないか。
 「このエセ天使。とっとと帰りなさいよ。あんたみたいな性格ブスに用はないわ」
  殺気立った眼差しを向けて、冴子は布団を引き寄せる。
 「私は正真正銘の天使よ! 性格ブスはあなたの方でしょ」
  失礼しちゃうわ。
  険悪ムードの中、緊張の糸を緩めたのは、意外にも天使の方だった。
 「そうじゃないわ。そうじゃないのよ。ごめんなさい。謝るわ。喧嘩をする為にここに来たんじゃないのよ。こんなことで時間を無駄にはしていられない」
  協力して欲しいことがあるの。貴女に。
  さきほどの傲慢な人を見下した笑みを収め、変わりにすがりつく様な必死の眼差しを冴子に向けてくる。
 「お願い。あなたにしかできないことなの」
  可愛らしく両手を胸の前に組んで、言葉づかいを改め、天使は冴子の前に腰を下ろす。
 「都合のいいこと言ってるんじゃないわよ。ほら、帰ってよ。私は寝るんだから」
  態度を180度変えた天使を胡散臭げにみやって、冴子はシッシと追い払う動作をする。引き寄せた布団をもう一度被り直す。
  素っ気ない冴子の態度に、天使は悲しそうに瞳を伏せた。
  わざとらしい。そう思いつつも、なぜか良心が痛んだ。相性最悪なこの天使に対して痛む良心は持ち合わせてはいないはずだというのに。 自分がとても悪人のような気がしてくる。
  なまじ本当の天使だからいけないのかもしれない。背中にあの翼さえなければ。慈悲深い表情をこんなにも上手く浮かべていなければ、あるいはさっさと追い払うことができたかもしれない。
  さんざん性格の悪さをみせつけられたにもかかわらず、冴子の心には罪悪感の種が植わっていた。
 「わかったわよ。聞いてあげるわよ。その代わり手短に頼むわね。明日も早いんだから」
  お人よしかも、とちらりとは思ったが、とりあえずかけ布団をどけてベッドの上に正座する。
 「ありがとう。貴女以外に頼む方がいなくて。助かるわ」
 「お礼なんかいいわ。それより何? 何の用?」
  うっとうしげに彼女の言葉を遮って冴子は同じ問いを重ねる。
 「亮ちゃんの邪魔をしてほしいの」
  天使の口から思わぬ人物の名前が飛び出し、冴子は訝しげに眉をひそめた。
 「亮ちゃんって?」
  とりあえず確認する。
 「赤城亮平のことです」
  にっこりと当然のようにフルネームを口にする天使に、冴子の目が警戒の光を帯びる。
 「なんであんたが亮平を知っているわけ?」
 「話せば長くなりますけど、簡単にいうと婚約者です」
 「婚約者??」
  あまりの驚きに声がうわずる。想像を越えた言葉に眩暈を起こしそうになって、冴子はベッドのサイドフレームにもたれかかった。
 一体全体どういうことだろう? しかもなぜ亮平のことで自分のところにこの女がやってくるのか。
  天使は衝撃を受ける冴子の様子を満足そうに2分ほど眺めやって、再び口を開いた。
 「ええ。婚約者です」
  勝ち誇ったような笑みを浮かべている気がするのは気のせいだろうか。
 「で、その婚約者が何の用があってここに来たわけ?」
  笑みの意味をつかむ前に、あえて天使の笑みを頭から追い払う。考えるだけで面白くない気分になりそうだった。
  動揺を隠すように冴子はわざとぶっきらぼうに言葉を返す。
 「手っ取り早くいうと邪魔して欲しいんです」
  途中説明を思い切りすっ飛ばし、結論だけを告げる天使の台詞にイライラしてくる。話の筋がまったく見えてこない。
 「言っていることがわからないわ。ちゃんと説明して」
 「亮ちゃんの邪魔をしてほしいの」
 「なんで? なんのために?」
  意味がわからない。
 「だ・か・ら。彼は私という婚約者がありながら、ちぐさという男女に恋しているんです。一種の気の迷いだと思うんだけど、彼が彼女に告白するのを邪魔してほしいの」
  ますますもって訳がわからない。この天使はわざと重要な部分を端折って説明しているような気がした。
 「だから、といわれてもわからないわ。なんで私がそんなまねしなくちゃいけないのよ」
 「私と亮ちゃんは10年前に結婚の約束をしたの。もちろん正式な契約。けれど10年経って来てみれば、彼は別の女に恋してる。しかも男みたいな女に。私が迎えに行ったら 何て言ったと思う? 泣きついてきて『チャンスをくれ。好きなやつがいる。彼女に告白してダメだったら君と一緒に行くから。俺の最後のわがまま許してくれ』ですって。 私だって好きな人に嫌われたくはないからO.Kしちゃったの。期限付きで。けれど、不安なのよ。貴女ならわかってくれるわよね?」
  すべてを見透かしたような意味深な笑みを口元に浮かべて、天使は軽く首を傾ける。
  天使の口から語られる言葉の数々を、とりあえずは最後まで聞いてやった。
  胡散臭い部分は多々あったけれど、なによりも……。
  ──自分が幸せになりたいから亮平の告白を妨害しろと?
  あまりにも自分勝手な台詞にムカッときた。しかもその役を自分にやれときたもんだ。
  しかも結婚の約束は10年前。10年前といえば亮平は6歳かそれくらいだったはず。子どものおままごとの領域ではないか。それをこの天使は本気で成就するはずの約束だと思っているのだろうか。
  あまりに滑稽で、冴子は発作的に笑いそうになった。本気で成就できると思っているなら、かなりおめでたい頭の持ち主だ。
 「本気で言っているわけ? 幼い子どもの約束を本気で信じているわけ?」
  アホらしい。
  声に出さずに呟いた言葉は、しかし正確に相手に伝わっていた。
 「あら。子どもの約束だろうが、契約は契約なの。正式に結ばれた契約なのだから果たされるのは当然でしょう」
  アホらしいとは心外だわ。
  微かに眉を吊り上げて不快げな表情を浮かべつつも天使は開き直る。
 「まあいいわ。ようは協力してくれればいいの。協力してくれるわよね?」
  貴女も亮ちゃんが好きなら、彼がちぐさに告白するのは面白くないでしょ。
  同意を求めるような問いかけに、しかし冴子は素直に首を縦に振ることは出来なかった。
 「勝手に決め付けないでくれる?」
  すべて知っているのだと語る瞳と絶対に協力するものだと決めてかかっている態度が、亮平の告白云々より面白くなかった。
 「貴女は協力してくれるわ。いえ、しなくてはいけないの」
  強制的なその口調に、冴子の眉があがる。
  嫌だと口に上りかけた返答が、喉の奥で詰まった。
  透き通るような声が何度も呪文のように言葉を繰り返す。天使の柔らかにメゾソプラノ に誘われるままに冴子の意識は闇の中に吸い込まれていく。必死で抵抗するも無意味だった。
  天井がぐるぐると輪を描き始める。動きはだんだんと速くなり、曲線が幾重にも見えた。
 「ありがとう」
  満面の笑みを浮かべる天使の顔が、回り続ける景色の中でブレることなく冴子を見下ろしていた。
  天使の笑みを最後に冴子は意識を手放した。
  力なくベッドに横になった少女を見下ろし、天使は音もなく部屋から姿を消した。
  鮮やかな消失。
  窓から流れ込む微かな風が、天使の残した一枚の羽を舞い上がらせた。

 
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