天使のいたずら




 『亮ちゃんの邪魔をしてほしいの』
  昨日の天使の言葉がこだまする。
 「なんで私がしなきゃいけないのよ」
  声に出るはずのなかった独り言は、しっかりと声に出ていたらしい。正面でなにやら作業をしていた生徒が顔を上げてこちらを見る。
 「あっ。気にしないで。なんでもないわ」
  十八番である天使のような笑顔(冴子の本性を知らない生徒たちの間で言われている笑顔)を怪訝な顔でこちらを見上げる生徒に向けて、冴子は椅子から立ち上がった。
  笑顔を向けられた生徒は一瞬ポッと顔を赤らめると、それを隠すように慌ててすぐに自分の作業に戻る。
  その姿に微笑を浮かべたまま、冴子は席から離れた。
  ──どうしたものかしら。
  ふぅ。
  溜息を吐き出し、部屋から一歩廊下に出た瞬間、タイミングを合わせる様に能天気な声とぶつかった。
 「お待たせしました。皆様の赤城亮平、ただ今参上」
  この馬鹿。
  頭痛がした。激しい頭痛が……。
  痛む頭を押さえて冴子は遠慮なく呟いた。独り言のつもりだったのだが、30センチも離れていない距離では相手に聞えないはずはない。冴子の発言に頭ひとつ高い亮平の顔が歪んだ。
 「……思うのは自由だけど、声に出すのはどうかと思うぞ」
  性格の悪さを広めるだけだぞ、と忠告しているつもりなのだろうか。人のことより自分のことを心配すればよいものを。
 「馬鹿に馬鹿と言って何が悪いのかしら? 私は性格が悪いわけじゃないわよ。素直なだけ」
  見下ろしてくる視線を受けて、冴子はにっこりと笑ってみせた。
 「可愛くない女は嫌われるぞ。それよりなんだ? このくそ忙しい時期に俺を呼び出して」
  ──よけいなお世話さまっだわ。
  微かに眉をしかめささやかな抗議をしてくる亮平を、冴子は内心で舌を出しながら、表向きにこやかに室内へと促す。
  なんとなくそわそわしている。暑くはないはずなのだが、額から顎にかけて汗が滴り落ちていた。おまけに呼吸が荒い。
  亮平を観察しながら、冴子は彼のための席を指し示す。
 「今まで何していたのか知らないけど、良かった。来ないようなら校内放送で呼び出そうかと思っていたのよ。やってもらわなきゃいけないことがたまりすぎちゃって。 今、この場ですっかり片付けてくれるとありがたいわ。片付かなくてみんな困っているのよ」
  ねっ! と同意を求めるように他の生徒たちを眺めやる。顔を上げた彼らは冴子の視線に、慌てて首を縦に振った。
  胡散臭げに生徒たちに目を向けていた亮平は、しかし観念したのか、指定された席に腰を下ろした。
  目の前には積み上げられた10センチほどの書類の束。
  うへっと奇妙なうめき声をあげる亮平に近づくと、冴子は書類の束に手を伸ばす。 ざっとめくって数枚を抜き取り、残りは脇に押しやって、抜き取った分だけを亮平の前に叩き置く。
 「とりあえず、これだけやっていただけるかしら?」
  駄目押しとばかり笑顔の大安売りをして、冴子は亮平の真正面に腰を下ろした。
  恨みがましい亮平の視線とぶつかる。
 「ほんっと俺にとっては大事な用なんだけど」
 『でしょうね』
  亮平の声を受け、脳裏に自分の声とは違う声がこだました。
  聞いたことのあるメゾソプラノ。
  真夜中に聴いた天使の……。
 「これでも充分配慮したつもりなんだけど、なら、こっちの分も今すぐやってもらおうかしら」
  視線を鋭く周囲に走らせながらも、冴子は亮平の言葉に答える。 脇に押しやった分を再び亮平の前にずらそうと立ち上がりかける彼女に、少年は慌てて立ち上がった。
 「いい。いい。これだけでいいから。それより、どうした?」
  慌てふためき自分から書類の束を遠ざけ、亮平は冴子の顔を覗き込む。
 「なにが?」
 「顔が怖い」
  女性に対し、大変失礼な一言を口にする少年の顔に、冴子はよけいなお世話だと書類のひとつを叩きつけた。
  しかし……。
  亮平の言葉に呼応するように、冴子の脳裏に憎らしい天使の頷く顔が浮かんだ。
  ──なに? 今の……。
  眉を寄せると今度ははっきりと声が聴こえた。
 『鈍くさいわね。貴女の中にいるのよ。気づきなさいよ。本当に馬鹿なんだから』
  天使はこちらの神経をさかなでる言葉をわざわざ選んで声を流してくる。
  ──ちょっと、あんた。出なさいよ! なんなのよ!!
  亮平に「怖い」と言われた顔をますます険しくさせながら、冴子は内なる存在に声に出さない声を投げつける。
 『約束したこと忘れたの? 貴女、私に協力するって言ったでしょ』
  ──言ってないわよ、そんなこと。
  そんな約束、した覚えはない! こんな相性最悪な相手に見返りもなしに協力などありえない。取引した覚えも冴子にはなかった。
 『私と契約交わしたくせに、シラを切る気? 最低な女』
  寝耳に水の話に、冴子の目がますます険しくなる。
  ──契約? そんなもの交わした覚えないわよ。エセ天使! 詐欺師!
 『あったまきた! もういいわ。借りるわよ身体! 貴女が何を言おうが契約は済んだんだから、履行させてもらうわ』
  じゃあね、おやすみ!
  ──ちょっと。まっ……。
 『しつこい! 寝てなさい!』
  癇癪を起こしたような天使の言葉が終わらないうちに、冴子の意識は深い闇の中に吸い込まれていった。
  残った天使の意識は冴子の顔で勝ち誇った笑みを浮かべる。
  書類に視線を落とした亮平が一瞬の少女の変化に気づくことはなかった。


 「変や」
  ここ最近の幼馴染ふたりの行動を思い出して、ちぐさは呟く。
  変。どう考えても変なのだ。ふたりとも。
  まずは亮平。彼はちぐさを避けていた。自分が何をしたのか知らないが、亮平はここ数日、ちぐさをみると距離をとり、近づかない。 そのくせちぐさの目のつくところで他の女生徒となにやら親しげにおしゃべりに興じていた。 時々、ちぐさへ意味ありげな視線を送りながら。にやにやと気味の悪い笑みを浮かべ、鼻の下をのばして。
  何を意図しているのかさっぱりわからない。わからないけれど、なぜかちぐさは彼の姿に腹立たしさを感じるのだ。
  ──変……。それに、わいも変や。
  亮平が変なのはなぜなのか、自分が変なのはなぜなのか、ない頭を絞って考える。が、答えは引き出せなかった。
  ──考えるだけ無駄やな。
  早々に諦めて、今度はもう一人の幼馴染のことを思う。
  冴子も亮平に負けず劣らず変だった。
  ちぐさが冴子に亮平のことを相談した翌日、彼女は急に素っ気なくなった。いや、以前からちぐさに対しては冷たかったし、 素っ気なかったわけだからその冷たさに拍車がかかったと言うべきだろう。どんなに話しかけても答えてくれない。 自分の爆弾発言(冴子が亮平を好きだろうと断言した件)が尾をひいているのだと思っていたが、どうやらそれとも違うらしい。 (本人が違うと言うのだからそうなのだろう、と素直にもそこで納得してしまうところがちぐさである)
  しかも嫌がる亮平を無理やり連れ出し、止めようとするちぐさを露骨に追い払う。
  今までこれほど強引な手に冴子が出たことはなかった。ちぐさ並にころころと表情が変わることもなかったはずだった。
  冴子はどちらかと言えば感情をコントロールできるタイプで、人間関係を円滑に進めていく為に嫌いな相手に対しても表向きにこやかに対応できる人間だったはず。
  それなのに。
  ちぐさだけでなく亮平に近づく同性に対して、嫌悪感を露にし追い払う。
  そのくせ……。
 「亮平の前ではぶりっ子して……」
  互いの性格を知っている幼馴染相手にいまさら女の子ぶるのは遅いとは思うのだけれど。
  ──さっぱりやわ。
  二人が何を考えているのかなど当事者ではないちぐさにはいくら頭をひねってもわからない。
  これ以上考えると熱が出てきそうだった。
  軽い眩暈を覚えて、ちぐさは頭上に飛び交うクエスチョンマークをむりやり頭の中に押し込めた。
  はやくいつもの二人に戻ってくれないだろうか。
  そんな願いを込めた呟きは、音にならずに風に溶けた。


 「はぁ」
  盛大な溜息が亮平の唇から洩れる。
  彼の頭の中身は真っ黒に塗りつぶされていた。
 「逃げたい」
  ポツリと呟いた言葉に、目の前の冴子が顔を上げてにっこりと微笑んだ。
 「どうしたの? 私といるのがそんなに辛い?」
  気分を害した様子もなく、さきほどの亮平の台詞に反応する。
  辛いです。
  反射的に答えかけて、しかし亮平は賢明にも喉の奥にその言葉を押し込めた。相手がさらりとした口調ではあるからといって、中身の感情と比例しているとは限らない。 よけいな一言を言って今以上につきまとわれる羽目になるのはどうしても避けたかった。 冴子の機嫌を損ねないようにしながら、なんとかこの状態を抜け出さなければならない。そうしなければちぐさに告白できないまま、タイムアップという状況になりかねないのだ。
  ──なんでこいつは邪魔ばかりするんだ。
  憤りを表に出せず、亮平は腹の中に怒りを吐き出す。本当は怒鳴りつけて飛び出してやりたいが、あとでどんな報復が待っているか考えるだに恐ろしい。 とてもそんな気にはなれなかった。そのため、怒りは内に溜め込むしかなかった。
  あの天使と再会した翌々日。冴子の態度が一変した。何か魂胆があるのではないかと疑いたくなるほど、必要以上に自分につきまとう。しかもタイミングを見計らったようにいつもちぐさに告白しようと決心した時に。
  ──あの天使が絡んでいるのか? まさかこいつ、あいつと結託したわけではないだろうな。
  考えていやっと首を振る。冴子と天使では波長が合わないような気がした。天使が相手では冴子は手を組みたがらないだろうと直感的に感じ取っていた。
  ただ、それを否定してしまうと、今のこの冴子の行動が理解できなくなるのだが。
  普段クールな冴子がなぜ、こんなにも豹変しているのか、亮平にはさっぱりわからなかった。
  何か企んでいるはずだ、と考えて、亮平はぷるぷると頭を振った。
  ──幼馴染を疑うなんてどうかしている。冴子はただ単に俺に好意を抱いているだけ……。
  そこまで考えて、亮平は思考を停止した。
  ──冴子が、俺に……好意?……。
 「はははは」
  乾いた笑いが洩れる。途端に目の前にある冴子の瞳が、気味の悪いものを見る目つきに変わった。
 「病院行った方がいいんじゃないの?」
  相手のことなどこれっぽっちも考えていない台詞だった。亮平の心に無数のトゲが突き刺さる。
  ──いったい、誰のせいだと思っているんだ。
  心中で悪態をつきながら、だが決して口に出しては言わない。言っても無駄だし、反対にやり込められてへこむのはこっちだ。一枚も二枚も冴子の方が上なのは長い経験上、思い知っている。
  たったひとつささやかに目で訴えることはしてみたのだが。
 「何? その目。私に何か言いたいことがあるの?」
  あまりにもストレートに訴えすぎたのか、目の前の悪魔の顔が不機嫌に歪んだ。
  亮平は即座に頭を振る。
 「めっそうもございません」
  腰を低くして言い募る。
 「それならいいけどね」
  高飛車な言い方は冴子のものだ。先ほどまでの亮平にべったりの姿とはまったくの別人だ。
 「冴子?」
  内心首を傾げながら、幼馴染の名を呼ぶ。
 「何? 言いたいことがあるならはっきり言ってよ」
  男らしくない。
 「いや、あのな……今日も美人だなぁ……と」
  言うつもりのなかったお世辞が口から零れ落ちた。瞬間、冴子は亮平の頬を掴むと、その肉を左右に力を込めて伸ばし始めた。
 「そんなみえみえのお世辞なんて使っていただわなくても結構。ご機嫌とりをして私から逃れようなんてそうはいかないわよ。絶対にちぐさには近づかせたりしませんから」
 「ふぇ」
  突然告げられた言葉の内容に、亮平は我が耳を疑った。この発言はもしかして……。
 「お前、俺のこと、好きなの?」
  訊こうとしていたこととは別のことを口走って、けれどそれに気づかずに、亮平は冴子の顔を凝視した。
  ──こいつ、知っているのか?
  抓られたままの台詞に、冴子はゆっくりと頷いた。不機嫌だった顔には笑みまで浮かべて衝撃的な言葉を紡ぎ出す。
 「だから言ったでしょう? 10年も想い続けていたって。何度も同じ台詞、女の子に言わせないでよ!」
  春のそよ風のような優しい、優しすぎる声は、紛れもないあの天使のモノだった。
 「い?」
  亮平は声にならない声をあげる。乱暴に冴子の手を払いのけると、彼女から遠ざかった。
  冴子(天使)は亮平の行為に気分を害することもなく、彼の様子をただ黙ってみていた。
「そんなあからさまな態度をとらなくったって」
  傷つくじゃない。あんまりだわ。
  絶対に傷ついているはずはないだろう天使は、形ばかりの拗ねた表情を作った。
 「お前、いつから『冴子』なんだ?」
 「何か勘違いしてません? 私、正真正銘冴子さんですよ。ただ、一時的に身体をナスティーである私が拝借しているんですけどね」
 「どっちでもいい。質問に答えろ! いつから『冴子』なんだ?」
 「仕方ない方……。貴方を訪ねた翌々日だったかしら。6日前からになりますね」
  震えるこぶしを腹の辺りまで上げ、亮平は歯軋りする。
 「図ったな。お前、始めからそのつもりだったんだろう」
  亮平は天使をギリリと睨みつけ、食いしばった歯の間から怒りに染まる声を押し出した。
 「あら、図るなんて。私は考えてなかったわ。ただ『冴子』さんに協力してもらおうと思っただけ。それなのにこの人ったら性格が悪い上に聞き分けも悪いんですもの」
  だからこういう手段をとるしかなかったんです。
  悪びれもなく言う天使に、握り締めたこぶしがますます白く変わっていく。
  ──よくもぬけぬけと……。
  握り締めたこぶしを振り上げることも出来ず、怒りのぶつけどころを求めて、亮平は外へと飛び出した。
  天使を許せなかった。

  
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