天使のいたずら
6
「ん……ん……」
机に突っ伏した大きな身体がビクリっと震える。その振動で亮平は目を覚ました。
顔を上げた瞬間、まぶしい夕日が瞳に飛び込んできて、たまらず目を細めた。
しばらく目を何度も瞬かせたあと、亮平はゆっくりと立ち上がるとグランド一面が見渡せるベランダへと出る。
空を仰ぎ見る。
どこまでも続く紺色の空には、早くも一番星が存在をアピールしていた。
グラウンドを見下ろすと、珍しく人っ子一人いなかった。
「あ……俺、こんな時間まで寝ていたのか」
ボソリと呟くと、教室へと回れ右をして壁にかけてある時計へと目を走らせる。
時計の針は7時ちょうどを示していた。
天使の罠にはまってしまった自分が悔しくて、がむしゃらに教室を飛び出したことまでは覚えていた。あれからかなりの時間が経っている。
「ちくしょう。あの女」
さっきまでの悔しさが蘇ってきて、亮平は握ったこぶしを窓枠に叩きつけた。
合わせるようにガラス越しにみえるドアが勢いよく開いた。開いたドアの向こうから、ショートカットの髪を振り乱して、少女が一人飛び込んでくる。
「ちぐさ」
突然の事態に、亮平の胸が激しく波打った。
ちぐさは手を振りながらベランダに近付いてくる。
息を弾ませながらベランダへと続くドアを引き開けて、ちぐさは亮平を見上げた。
「どうした?」
胸の鼓動を押さえながら、亮平が早口に訊ねる。少し声が裏返っていた気がした。
「なにがや?」
「慌ててるからさ」
「自分なぁ……わかってない。あんなに学校中を顔色変えて走り回っていたら誰かて心配して慌てもするわ」
ド迫力でまくし立てられて、亮平は唖然とする。そんなに血相変えて走っていたのだろうか。
それより何よりちぐさの態度が嬉しかった。汗だくになるほどに心配して走り回ってくれる心が。
肩で息しているちぐさをみて、すんなり「ごめん」と言葉が出た。いつもならばなかなか素直に口に出せないのだが、今日は簡単に言えた。
これなら言えるかもしれない。ずっと言えなかった言葉が。
まだ呼吸の乱れているちぐさの顔を真っ直ぐに見て、亮平は深く息を吸い込んだ。
「好きだ」
するりととても簡単に唇が言葉を紡いだ。ムードもへったくれもなかった。回りくどくもなく飾り気もなく、キザな言葉でもなかった。
思い巡らしていたどの台詞とも違ったいたってシンプルな告白だった。
ちぐさも亮平の唐突過ぎる告白に、きょとんとした顔をしていたが、やがて照れ臭そうに笑うと、こくんと頷いた。
亮平がもう一押し、ちぐさの返事をきこうと口を開きかけた瞬間、悪魔のいたずらのようなけたたましいベルの音がそれを遮った。
『ジリジリジリ』
ベルの音が亮平の言葉とちぐさの返事をかき消した。
『ジリジリジリ』
けたたましいベルの音に、亮平は目を覚ました。
慌てて音の発信源を探す。キョロキョロと見回した瞳に映ったのはデジタル式の目覚し時計。
はぁ。
起き上がって目覚ましを止めると、亮平はがっくりと肩を落とした。
「夢……だったのか? 今の全部……」
まだ半覚醒状態で呟く。ベールのかかった意識をすっきりさせるため、頬を力任せに2、3度ひっぱたいてみる。
「ああ、そうだった……。告白どころじゃなかったんだっけ」
冴子(天使)にだまされたことに腹を立てて、そのまま学校を飛び出し、たしかやけ酒を飲んだ気がする。やけ酒といってもビール缶半分だったけれど。
だからちぐさへの告白はまだのはずだ。告白できたと思ったのは、あれは夢だったのだ。
──うまくいきすぎだと思ったんだ。
自分の行動をある程度まで思い出して、亮平は壁にかかった日めくりカレンダーに目を走らせた。
日付は5月19日で止まっている。とすると……。
「今日が最終日なのか?」
慌てて階段を駆け下り、居間のテレビをつけた。
タイミングよくブラウン管の中のキャスターが日付を伝える。
「5月20日。本日のニュースをお伝えします。まず先日の……」
美人のニュースキャスターに事実を告げられて、亮平はその場に突っ伏した。
「嘘だろう」
悲しい叫び声が家中に響き渡る中、亮平は虚ろな眼差しを宙に向けた。
タイムリミットは刻一刻と近づいてきていた。
期限最終日。5月20日。
今日は亮平の心を表すかのように、雨模様だった。
どんよりと重たげに空いっぱいを占める雲に、哀しげな霧雨がとてもよく似合っていた。
しかし亮平には景色を眺める余裕すらない。今日までにどうしてもちぐさと両想いにならなければならない。
──あの夢が現実だったら良かったのに。
何度も何度も重い溜息を吐き出す。現実だったら今の自分は最高に幸せだったのに。
あれが夢だったとまた再認識させられる。未練と自己嫌悪の大きな波が押し寄せてくる。
どうにもならない焦りとともに、天使が放った罠に溺れてしまった自分に対し腹立たしさがこみあげてきた。
「できっこないだろ。ムリだ」
チッと舌打ちし、吐き捨てると、亮平は自転車の向きを変えた。来た道を人の波に逆らってペダルをこぎ始める。
しかし……。
「りょ・う・へ・い」
真正面から甘ったるい声で冴子(天使)が近づいてくる。
ゲッ。
「あっ。おはよう。冴子……」
引きつらせながら笑顔をかろうじて浮かべて、亮平は努めて明るく挨拶を返した。
「おはよう。あら、ふ〜ん。ようやく決心がついたってわけね」
冴子は亮平の姿を上から下までしげしげと見やって、嬉しそうに声を上げた。
なにやら一人で納得してしまっている。
「決心?」
自転車から降り、冴子に近寄る。他人に聞こえないよう用心しながら、声のトーンを落として亮平は冴子に問い返した。
「決心って決心よ。わからない?」
天使は亮平の視線をひょいとかわし、手にしていた傘の柄をクルクルとまわす。
飛び散る水滴。顔にかかるそれを乱暴に払いながら、亮平は人の波から自分と冴子をひき離した。
「とぼけんなよ。なんの決心だよ」
「自分の胸に聞いてみたら? 自分が良くわかってるでしょ?」
「何のことだ?」
「今、帰ろうとしたじゃない。それって賭けを放棄したってことでしょ?
私と一緒に天界に来てくれる決心がついたから賭けを放棄するのよね? 違って?」
「ちがっ……忘れ物をしたから取りに帰ろうとしただけだよ。誰が放棄するかよ。冗談じゃない。
俺はまだちぐさのこと、諦めたわけじゃねぇんだからな。おあいにくさま。へへーんだ」
最後は自棄になって叫ぶと、目の前の冴子の顔がみるみる歪んでいった。見る間に大粒の雫が瞳に浮かび上がり、頬を流れ落ちる。
傍を通り過ぎる生徒たちの冷たい視線に、居たたまれなくなる。
──何で俺がこんな目に……。
泣きたいのはこっちだった。
「あー! もう。わかった。わかったから。俺が悪かった。俺が悪かったから、謝る。謝ります。この通り! だから泣くのは……
嘘泣きはもう止めてくれよ」
半分悲鳴の混じった台詞に、しかし彼女が泣き止む様子はない。そればかりか、「嘘泣きだなんて……」とますますしゃくりあげる。
「あーわかった。ごめん。言い過ぎた。だからなくのを止めてくれよ。この通り! 頼むから」
それでも天使は泣き止まない。肩を震わせて両手で顔を覆ったまま、泣きじゃくっている。
「あーーわかった。諦めた。ちぐさのことは諦める。あいつに告白するのはやめる」
どうすればいいのかわからず、自棄になって言ってはならないことを口走ってしまった。途端に冴子(天使)は顔を上げて微笑む。
顔をあげた彼女の頬にはすでに涙の跡はなかった。
「本当ね? 男に二言はないわよね」
ふふふふと含み笑いを洩らして、上機嫌の天使は亮平の腕にするりと自分の腕をからめた。
幸福にしてくれるはずの天使の笑顔は、亮平にはこれからの不安と諦めだけを運ぶものとなった。
「行きますよ」
すでに自ら賭けを放棄してしまった亮平を、本来の姿の戻った天使が促す。
「ああ」
絶望感にうちひしがれながら、亮平は暗い声と表情で答える。
眼下には夕日に照らされた慣れ親しんだ光景が広がっていた。
亮平と天使は地上から約20メートル上空に浮かんでいた。最後にもう一度だけ自分の住んでいた世界を観たいと願い出た亮平の言葉を
天使が聞き入れてくれたためだった。
眼下に広がる楽園は、退屈で平和だったけれどそれなりに心地よかった。時間がそのままずっと続いていくものだと思っていた。
天使と再会しなければ、おそらくこれからも続いていくものだったはずだ。
亮平は限界まで瞳を見開いて時間をかけて景色を眺めていた。瞳に焼き付けるかのごとく
熱心に見下ろすのは、未練ばかりではなく、万に一つの可能性を捨て切れていないからか。
目を凝らし、地上を見続ける亮平の目にふと豆粒ほどの大きさの何かが動いているのが見えた。
ふたつの点に目の焦点を合わせる。かろうじてそれが二人の少女らしき影なのだと判る。
目を細め、集中する。
ふたつの影はこちらを見上げ、何度も転びそうになりながらも、必死で追いかけてくる。
「どういうことだ?」
「……彼女たちには私たちの姿がみれるみたいですね」
亮平の声に、諦めの滲む天使の声が答える。
「みえる?」
「ええ。どういうわけか、はっきりと二人には見えているみたい」
なにか別に隠しているのではないか、と疑わせる雰囲気をもつ天使を、亮平は凝視する。
「本当か?」
「貴方に嘘ついてどうするんですか。最後まで私を疑うなんて失礼しちゃうわ」
茶化す物言いに、亮平の目が真面目に彼女をみやった。
「ナスティー」
初めて天使の名を呼ぶ。
「最後っていうならちゃんと説明しろよ」
詰め寄る。
名前を呼ばれたことに目を見張り、天使は肩をすくめて弱々しく微笑んだ。今まで見たことのない寂しげな笑みだった。
口調を改めて言葉を続ける。
「貴方を連れて行くことはできません。他の人には貴方と私の姿が見えないというのに、彼女たちには見えてしまう。これは私の負けです」
どういう意味だ? と目で問う亮平に、もう一度深く息を吐き出して、天使は溜息混じりに言葉を押し出した。
「貴方をみることができるということは、彼女たちが誰よりも強く貴方を想っているということ。
想いが強い二人に免じて貴方を二人に返します」
天使が人の幸せを奪うわけにはいきませんもの。人に幸せを運ぶのが天使でしょう?
私は仮にも天使の一員なんですから。
「諦めます。貴方のことを。けれど、ちゃんと彼女には告白してくださいよ。そうでなきゃ、私の来た意味がないですものね」
茶目っ気たっぷりで語る天使に、亮平は口を数度開閉しただけで、結局何も言えずに口をつぐんだ。
驚愕に目を見張ったまま絶句している亮平に、天使は答えになっているのかいないのか判らない台詞を返した。
「10年も見ていて、ずっとじれったかった」
その一言を最後に、天使は亮平から顔を逸らし、背を向けた。
「おろします」
亮平の身体は不思議な浮遊感に包まれ、瞬きする間にちぐさと冴子のいる地上に戻っていた。
天使の見守る中、亮平は言えずにいた言葉をちぐさに告げることができたようだった。冴子の応援を受け、
顔を真っ赤にしながらやっとのことで告白を成し遂げる少年。こちらに背を向けて歩き出す亮平の後姿とちぐさの様子に、
彼の想いがみごと彼女に届き、ハッピーエンドを迎えたことをナスティーは確信した。