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私記:父の記録

琉大が燃えた日トップへ


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矛先は琉大に



 オフリミッツにゆれている中、もう一つの砲弾が降ってきた。至近弾である。

 8月9日、琉球大学財団は、琉大学生の反米的行動のため同大学に対する総ての財政的援助を打切る、と発表した。

 同財団の基金の大部分はアメリカから出ており、最近の学生の行動は大学の目的に沿わないので、財政的援助を続ける価値はない、と。

 琉球大学財団は布令第50号によって設置され、琉大への援助、学生への奨学金の貸付等を行っていた。理事会は、職責上の理事として、琉大学長、同事務局長、米民政府教育局長、ミシガン州大学団長(どういういきさつかは知らないが、教授団を送っていた)で他の八人の理事は、職責上の理事の過半数の投票によって選ばれ、理事長は護得久朝章であった。むろん主席民政官の監督下にあり、援助打切りの発表もその指示によるものであった。

 またしても経済的な側面からの攻撃である。経済的なしめつけによって屈服させることを意図した“オフリミッツ”も、琉・米人のマサツをさけるためとしながらも、その誘因は学生デモにある、という方向に向けられつつあった。「運動の行きすぎを反省すべき」といった発言も出たりしていた。

 その実、何らのトラブルも起してはいないのである。学生自身これまでの行動が土地闘争の統一行動を乱し、勝手なふるまいをしたとは誰も思っていなかった。むしろ組織の手足となってその活動を支えることを心がけてきたつもりである。デモについても、直後はみんなが拍手を送っていたし、これが大学をゆるがす問題に発展するとは思いもよらなかった。

 住民の結束に対して米軍は、オフリミッツでゆさぶりをかけ、次にその掌中にある琉大をターゲットにしてきたのである。


 琉球大学は1951年、米民政府布令第30号によって創設されたが、翌52年2月に公布された布令第66号「琉球教育法」の第14章に位置づけられ、布令30号は廃止された。

 その総則第2条には「…(略)…その自由即ち言論、集会、請願、信教及び出版の自由を得ることに助長せしめるのを目的とする。」と定めてはいた。大学の管理・運営に当る理事会は、「民政官の許可を経て」とその指揮下にあり、選任は「琉球人の男女七人を以て構成しその中六人は民政官の許可を経て主席がこれを任命する。(文教局長は職責上理事)」となっていた。

 布令30号にあった「占領軍の政策に反せざる限り」という文言は削除されていたが、その実は消えてはいなかった。

 「布令大学」という琉球大学の性格については、この間「琉大文学」を出版し、文芸部活動をすすめる中で、きわめて不都合を感じてきたものであったが、この緊迫した状況の中でその本性が貌を出してきたのである。

 大学は夏休み中なので閑散としていたが、大学側は理事会招集に動く等、緊張した空気につつまれていた。

 学生会の役員、特別委員は不安な面持ちで集まってきたが、財団の援助打ち切りのニュース以外、何事がどう進行しているのか細部にわたることについては全く伝わらない。

 米民政府教育部長のディフェンダーファーがあわただしくかけこんできたらしい。彼も財団理事の一人である。というより、民政官の意を体して理事会をコントロールする役目をもっていたといった方がいいかもしれない。記者からの断片的な情報では、学生の処分問題がもちあがっているということである。

 財団の援助打ち切りという発表が、土地闘争の中での学生の動きが反米的色彩をおびているということを理由としていただけに、何らかの措置を要求してくるであろうことは予測されることではあった。とはいえこれは露骨な大学の自治への介入ではないか。

 学生会では、大学側がこれにどう対処しようとしているのか、学生の意見もきくべきである、と学長に面談を求めた。が、対応におわれ、時間的余裕がないということで、面談の機会はもてなかったが安里学長は「学生からの犠牲者は出さない」との意向をのべていた。大学側としても、学生は処分に値するような行動はしていないと認識していたようである。

 何らかの問題があれば、大学が自主的に判断すべきものであって、他から強制されるものではない。
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