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私記:父の記録

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中部学生大会とオフリミッツ県民大会の翌日、特別委員の面々ははれやかな顔で集まってきた。ひと通り昨日のとりくみをふりかえってみる。

 学生の参加も良好であったし、デモについてもきわめてスムーズに運び、何らのトラブルもなかったことが確認された。帰省学生の途中参加についても、こちらからよびかけたわけではなかったが、共に連携をとっていく立場にあり、別段問題はなかった。

 また県民大会については、かってない参加者でもり上がり、県民の意志を内外に示す歴史的な大会であったことを確認した。

 学生課に報告に行ったとき仲村課長は笑顔で「りっぱなデモでした。ごくろうさん」とねぎらってくれた。また、たまたま大学を訪ねていた首里署の例の係官に出会い「許可をしたのははじめてで不安だったが、たいへん良かった」と、むこうも安堵したようだった。

 特別委員会ではこれからのとりくみの検討にとりかかった。

 先の県民大会で確認された本土派遣の県民代表について。原水協からも派遣要請がきていたが、このことも含め、土地協の理事会に推せんする琉大学生会代表としては検討の結果、古我地会長は先の総会できめた学生会独自の派遣代表に含まれていることで、事務局長の喜舎場君を推せんすることになった。このほか代表には屋良会長をはじめ、当時は官公労に所属していた亀甲康吉氏らが選ばれていた。

 代表団は8月の初めに出発、本土の各団体への要請、集会での沖縄の実情報告のほか、広島・長崎の原水禁大会にも参加している。(喜舎場君も一団に加わっているのだが、これが後に問題となる。)

 学生会としてのこれからのとりくみについてであるが、もうすぐ夏休みに入る(事実上入っている)。学内中心の活動は一時中止とせざるを得ない。そのエネルギーを帰省活動に向けることになった。

 もう一つ、当面の計画として、帰省学生との共催で、中部で学生大会を開く予定をたてていた。この大会へむけてとりくみを急ぐこと、帰省学生もその組織化をすすめていた。双方で話合いの結果「土地問題解決促進大会」として8月8日、コザで開催することになった。会場の確保(諸見小学校)、デモの申請等は帰省学生会の方で手配したと思う。地元の中部青年団も協力をしてくれた。その頃青年団には、教員でその地域活動をしていた有銘正夫、高宮城清といった人たちがいた。

 コザ署からデモの許可もとっていたが、那覇での経験もあり、特段の注意や条件はつけられていなかった。

 集会には、中部を中心に参加体制をとることにし、琉大の代表あいさつは与那覇佳弘に、具志和子さんには決意表明をやってもらうことになった。彼女は先の総会で、琉大学生会としての本土派遣代表の一人に選ばれていたが、まだ大勢の前で意見をのべるような機会がなかった。そこで、代表で本土に行くといろいろな集会で報告などに立たなければならないだろうから、その手はじめにということもあった。


 こうして準備がすすめられている集会前日の8月7日午後5時すぎ、突如米軍は中部一帯を「オフリミッツ」地域に設定することを発表した。

 米民政府新聞課から発表された三軍共同声明の内容は、「第30号線以北から東部の屋嘉及び西部の仲泊以南にある全住民地域及び諸施設は、無期限にわたり全米軍要員の“オフリミッツ”に設定された。この禁令は全軍要員に適当な通告を与えるため、8月8日の午前9時までは実施されない。この処置は、この地域内で計画される住民大会やデモ(示威行進)における煽動的意見、または行進の結果発生するかもしれない琉球人と米人間の衝突をさけるための予防措置としてとられたものである。」

 またこの声明に関しライカム(琉球軍司令部)筋では「中部一帯のオフリミッツ設定は、声明文にあるとおり、琉・米人間のマサツをさけるためのものである。しかし軍としては無期限のオフリミッツ設定を表明している以上、いつまで続くか分らない。たとえ琉・米人間にマサツがなくなったとの見解に達した時期においてでもこれが解除されるかどうか不明である。この声明に那覇が含まれていないのは、そういうマサツがないとの理由にもとづくものであるかどうか分からないが、マサツの起こる可能性があるとしたらオフリミッツに設定される可能性がないとはいえない。」と語っていた。

 「オフリミッツ」は米軍関係者の、住民地域への立入りを禁ずるということである。そのニュースに接したのは7日の夕方で、まだ反応は表に出ていなかったし、その効果がいかほどのものであるか、当初はさほど深刻には考えていなかった。それが早速身のまわりに火の粉がふってくることになったのである。

 8日当日、集会場の諸見小学校に学生が集まってくる頃には、オフリミッツからくるまわりの様子も伝わってきて、やや緊張した空気につつまれていた。

 午後2時、集会は予定通りはじめられ、青年会代表、伊佐浜の代表の共にたたかう連帯のあいさつがあり、具志和子も琉大学生会の本土派遣団を代表して決意表明を行った。

 集会の途中、10数人のコザの風俗業者が、コザ市長からの要請ということでデモの中止を求めてやってきた。デモのとり止めを要求してのことである。集会をすすめながら、琉大・帰省学生双方の世話人でその対応に当った。

 業者は「米軍は琉・米人のマサツをさけるため、といっており、デモ等の計画があるからオフリミッツが出されるのだ。オフリミッツはわれわれにとっては死活の問題であり、直ちにデモをとりやめてほしい。」と要求。学生側は「この計画は四原則貫徹というみなさんを含めた県民要求実現のためのものである。米人とマサツを起すつもりはないし、正規の許可も得ている。むしろみなさんも加わってほしい。米軍はオフリミッツを出すことで住民側を困らせようとする手段だから、その解除を米軍に要求すべきではないか」と説得したが、「デモがあることを理由としているから止めてほしい。オフリミッツが続いたら干上がってしまう。もしそれでもやるというのであれば、業者をみんな動員して実力で阻止する」といってきかない。

 しばらく待機してもらい、この事態にどう対処すべきかを協議した。その中では、「われわれのデモは許可を得た合法的なもので、他から干渉される理由も何らの手落ちもない。米軍のオフリミッツ声明こそ住民の弱点につけこむ卑劣な手段で、業者の要求は筋違いである」と、デモを決行しようという意見。

「ここでデモをやめるのはくやしいことではある。やめたからといって問題が解決するとも思えない。しかし決行した場合、業者との衝突はさけられない。そうなると、住民間の争いは米軍の意図にはまることにはならないか。」等論議がかわされた。あげく、理屈はどうあれ業者との衝突は、いい結果を招くとは思えない、ということでデモは見合わせることになった。なお、今後互いに住民としてどう連携をとっていくか、改めて話合いをもつということについて業者もこれを了解、事なきを得た。

 集会は予定通り終えたがデモは中止。学生の中からは不満の声もあったが、この間の経過を説明して解散した。だがみんなすんなり帰る気分になれないのか、所々ひとかたまりになって意見をかわし合っている。その時、誰であったか、大学側から学生の自粛を促すラジオ放送があったということを伝えてきた。業者との接触があって、放送のことはさほど気にとめなかったが、大学周辺ではその頃から何らかの動きがあったのであろう。

 その時は、事の焦点が当面のデモをめぐる問題の処理にあって、大学側のことより業者の要求に応じてデモをとりやめたことが気になっていた。私も風俗業者との衝突はさけた方がよかろう、という方の意見であった。

 ただデモをとりやめるということだけでは何らの進展もないので、改めて話合いの機会をもとうということになったのだが、日時等具体的なことは確認していなかった。実際に業者との話合いに入ったとき、どのような方向への話ができるのか。折衝の中で、デモをやめたからといってオフリミッツを解くとは限らないと説得したが業者はきかなかった。

 オフリミッツは、お客さんが来なくなったら困るというこちらの経済的弱点をついたものであろうが、むこうの米兵も基地の中に閉じこめられてしまうことになる。長く続いたらネをあげるはどっちだろう。生活をかけた本気のたたかいを風俗業者に期待するのはムリなはなしだろうか。

 業者と直接対応せざるを得ないことになって、あれこれと考え、ただごとではない問題に直面していることを感じた。(この直後から学生会自身にふりかかる問題が発生して、業者との話合いは実現していない。)

 「オフリミッツ」ということばははじめてきくことばではない。米軍が定めた“Aサイン”というのがあった。一定の衛生基準を満たし米軍人・軍属が入ってもよいという許可済みの「APPROVED」の頭文字を店頭に表示していた。

 これまでも限定してオフリミッツが発せられることはあったが、それは衛生的見地からなされたものであった。だが今回は違う。明らかに従来のそれとは本質を異にし、プライス勧告反論に対する米軍の意志表示であり、住民運動に対する具体的な対策だといえた。いわゆる経済封鎖である。

 いつの時代もやることは同じなのか。いうことをきかなかったら、援助打ち切りとか経済制裁を加える。要求をのめば制裁を解くという図式である。

 プライス勧告から2カ月、四原則貫徹を旗頭に、燎原の火のように全島に燃え広がる住民運動の様子をじっとうかがい、その機をねらっていたのであろう。住民側の経済的な弱点に“オフリミッツ”というクサビを打ちこんできたのだった。

 この時期、7月28日の県民大会のもり上がりをうけて、各地域で「土地を守る会」の結成がすすみ、土地闘争の組織化にむけて活発に動きつつあった。中部での学生大会も地域の活動をもり上げていく意味をもっての計画であったが、これに合わせるように前日の夕のオフリミッツ布令は、まさに意図的でもう一つの効果、元気のいい学生群と住民を対立させ、分断をねらったものといえる。

 また、中部は基地の集中しているところ。ここの人々は基地問題に敏感であると同時に経済的には基地に依存せざるを得ない。議員の総辞職を最初にきめたのは中部市長村議長会だった。米軍はその中部にねらいを定めてきたのだった。

 米軍のこの巧妙な権限発動は、これから昇りつめていきつつある“島ぐるみ闘争”に、微妙な影響を与えそうであった。

 このたたかいは、強力なアメリカの軍事政策を相手にしたものであるから、ちょっとやそっとで解決し得る問題ではないかということは容易に予測できた。長期に及ぶであろうこと、全住民が一体となり、内部に乱れをきたさないことは、機会ごとに強調されてきたことでもあった。

 中部学生大会の「宣言」でも、「我々の長期かつ困難なる闘争に最も用心すべきは、住民の腰くだけやうらぎりである。我々が祖国日本の8千万の期待にこたえ、全世界の良識ある人達に応える唯一の方法は原水爆基地拡張に徹頭徹尾反対し一坪も米国に売り渡してはいけない。そうすることが我々の未来を保証するものである。」とのべていた。

 強い権力をもつものを相手にした闘いで、こちらの一糸乱れぬ団結をよびかけ、結束していくことはむろん必要であるが、相手の反撃、謀略に対する対応はどうであったか。

 オフリミッツ発令後、新聞紙上に見る指導的立場にある人たちの談話をいくつかひろってみると、その要点「これは当初から予想されていたことだ。米軍による暴動の挑発ともいえるもので、今こそわれわれは冷静な行動が必要である。」、「土地闘争が遠く将来に及ぶ問題をもつものである以上、如何なる苦しみにも耐えて助け合い、組織の一層の強化をはからなければならない。」、「政府は基地経済に結びつけられた業者たちに対する確固とした産業政策をたてるべきだ。」、「このような事態になるのではないかと懸念していたが、それが本物となった。明らかに土地問題を封ずる手であることは間違いない。アメリカとしてはこの機会に基地からの利益を住民に考えてもらおうといったことが察知できる。この対策については早速検討に入る。」およそこのような内容である。

 こうあるべきだという理念的な意味ではその通りであろうが、現実に起っている問題で、あらかじめ予測されたというにしては即応策が示されていない。 

 市町村ごとの「土地を守る会」のまとめ役である市町村長会は十日、オフリミッツ解禁について米軍司令部に要請しているが、その中で「学生がデモ行進を行うということは若さの致すところで、今後できるだけこのようなことがおこらないよう努力する」といっている。米軍のいうマサツをさけるためという口実を全面的に容認し、あたかも学生デモが迷惑をかけているかの如くお詫びをして解禁をお願いしている。隣の大旦那に子どものしつけをたしなめられて、子どものいい分、事実関係もたしかめずに、ごきげんを損ねてはと頭を下げ、よく言いきかせますと謝っている図である。

 学生デモは何らかのマサツを起こしていないし、コザでのデモの予定は、市長や業者の要望を受け入れて中止した。デモもできない状況こそが問題なのだが。

 政党間では、民主党は「四原則貫徹を期し重大決意をもって問題の解決に全力をあげてますます努力する」としながらも、オフリミッツの施行に関しては「住民運動の行きすぎがもたらしたものであり、米軍をしてこのような措置をとらせた責任は住民側にないとはいえない。」との見解を出していた。

 また社大党は平良書記長談話で「日本国会の現地調査団の拒否、オフリミッツの施行など、アメリカ側に問題解決の誠意はなく、力によってプライス勧告を強行しようという意図がうかがわれる。今後の問題としては、具体的政治的手段としての主席退陣を速やかに実行することである。今にして主席が退陣しなければ沖縄の将来を完全にあやまることになる。」と、現状打開の手段として、主席の退陣を要求していた。

 一方、運動体側では、市町村を単位とした「土地を守る会」と、民主団体からなる「土地を守る協議会」との関係について、五者協を含めた組織整備についての話合いがすすめられていた。

 何かきしみが感じられた。
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