>>TOPページ

私記:父の記録

琉大が燃えた日トップへ


前のページへ   次のページへ



矛先は琉大にトップへ

謹慎処分 8月10日、ひる11時すぎから琉大理事会と同財団理事会の緊急合同会議が開かれた。出席者は理事会側、前上門昇(理事長)、真栄田義見(文教局長)、徳元八一、中村信。財団側、護得久朝章(理事長)、ディフェンダーファー米民政府教育部長、ミードミシガン大学教授、国場幸太郎、ロイ・仲田、安里学長、翁長事務局長の各氏。仲宗根副学長、各学部長らは除かれ、記者もしめ出しての秘密会議だった。(宮古、八重山の代表理事は出席していない。)

 合同会議は約9時間にわたって行われ、午後8時すぎに終わっている。

 会議終了後、理事会と学長は、学生のデモ行進の責任ということで、学生数名に謹慎処分を命ずるという次のような声明を発表した。

〈声 明〉
 琉大理事会及び同学長は、琉球教育法第14章の琉球大学の項に規定されたその責任を認識して共産主義に反対することをここに再確認し、共産主義を防止し東洋において共産主義の侵略から自由諸国を守る米国の指導を求め、このたびの本学学生の反米デモ行進を行ったことに対し、当地滞在の米人並びに全米人に遺憾の意を表する。琉球大学を創設し、これを維持する米国政府及び米国市民の援助に対して、デモ行進をなした責任を感じ、よって数名の責任者である学生に謹慎処分を命ずる。
 なお今後本学学生は、許可を受けない学外及び学内の活動に参加することを禁ずる。

 数名の責任者の謹慎処分と活動禁止。この決定を学生会の諸君数人と学寮に待機していてきいた。とうとう来たか、互いに顔を見合わせた。

 いかなる形にしろ処分を認めるということは外圧に屈したことになる。その処分を受ける立場にある学生にとって、いわれのないことであり受けいれるわけにはいかない。

 ともあれ意志表示をしなければということになったが、理事会と財団の協議の中で、どのような具体的な論議、とりかわしがなされたか全く明らかにされていない。

 合同会議のあと大学側では、会議に出席した安里学長、翁長事務局長をかこんで、大学の評議員との間で深夜に及び話合いが行われたという。

 後にきいたことであるが、評議員会では、「処分する具体的な理由が明確でない。何を根拠に誰を処分するのか」と、学生の処分に強く反対したという。会議がおよそ九時間にも及んだのは、論議が学生処分の方向にすんなりいかなかったからであろう。

 だが、明白な理由など問題ではないディフェンダーファーは「この大学は民政官の権限によってどうにでもなる大学だ」と恫喝し、そのおどしにおしきられたようである。

 問題にしてきた7月28日のデモ行進における反米的言動といわれるのは、行進中に叫んだ「ヤンキー・ゴーホーム」と「圧政を砕き……」と書かれたプラカードの「圧政」という文句であるといわれ、これをもって学生の土地闘争デモを「反米デモ」ときめつけてきている。そればかりでなく、土地協の依頼によって県民大会会場で、学生を動員して運動資金カンパを行ったが、これを共産主義の主催による大会に共産主義者をおくるためのものだ、といいがかりをつけてきていた。

 たぶん派遣代表団が原水禁大会に参加し、沖縄問題を訴えていたことをさしていたのだろう。その頃喜舎場君は、広島に続いて長崎の大会に参加していて、「この大会で沖縄問題が真剣にとり上げられ、大きな地位を占めたことは予想以上のことで、驚きとともに感謝の念で一杯である」という消息を伝えていた。

 古我知会長は「私たちが大会場で資金カンパをしたのは、土地協の一員としての協力で、共産主義のためのものではない。

 こんごの運動については、中央委員会、土地特別委員会で話合ってきめるが、私たちの運動は一切のイデオロギーを越えた学生の純粋な立場から、生活と国土を守るためのたたかいであり、基本的に正しかった。謹慎処分が誰か分らないが、この問題は大学当局と一緒になって解決したい。」との談話を発表していた。

 謹慎処分を受ける学生については、評議員会で決定されることになっていたようである。
- 18 -



前へ      もくじへ      次へ