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私記:父の記録

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学生総会開催へ 同じく6月18日、琉大学生会の臨時総会が開かれた。

 問題発生以来、学内においても論議が広まっていた。巷は燃え上がっている。学生会としての組織的な運動は未経験であったが、何らかのアクションの必要はみんなが感じていた。

 学生総会開催のはなしがもち上がったとき、誰が言い出したかは定かでないが、一つのふん囲気であったかもしれない。執行部の招集よりも連署による開催要求にした方が効果的ではないか、ということになり署名がとりくまれた。後の特別委のメンバーが中心であったと思う。総会開催要求の主旨は「軍用地問題に関するプライス勧告への意思表示」ということで、要件を満たす200余名の署名はすぐに集まった。

 これによって臨時総会が開催されることになったのだが、その議長は執行部以外からということで、古我知会長から私に話がまわってきた。事が事だけに荷の重い役目だと思ったが、逃げ腰になるわけにもいかず、総会の議長をつとめることになった。副議長は玉城忠さん(教育)だったと思う。

 11時半頃から始まった総会は、本館2階の講堂をびっしり埋めつくしていた。通常の総会も学生の集まり具合は良かったが、この日は格別のふん囲気が感じられた。 

 プライス勧告の内容が明らかにされるにつれ、米軍の勝手な都合の前に住民の存在が無視されていることへの怒りが広がっていた。

 いま目の前につきつけられているこの状況に、学生会としていかに対処すべきか、みんないいたいことはたくさんあった。

 予定では、第4時限の講義(11時半〜12時半)をカットしてその時間内と大学側の許可を得ていたが、その時間内で論議がおさまるはずもなかった。途中で時間がきた。

 議長席についていて、場内の熱気がひときわ伝わってくる。型どおり「発言は要点をしぼって簡潔に」とよびかけてはいたが、時間は気にしないように(気にしても仕方がない)と思っていた。

 会長が時間延長を当局に申し入れたがききいれられなかった。しかし熱気にもり上がっている総会は「1、2時間の講義には代えられない重大な問題」と、その場を動かず、総会続行を決議した。その気配に当局もこれを認めざるを得ず、そのまま続けられた。

 プライス勧告をめぐる当日の発言の要点を二、三新聞からひろってみた。

 「これはモーニングスター紙の社説にもみられるように、沖縄人への完全なる蔑視からきたもので、単なる声明だけでなくデモやその他の方法で態度表明をすべきだ」、「沖縄には民族主義運動がないから基地維持が容易である、とプライス勧告はいっているが、今こそ全沖縄住民が統一戦線をはって闘うときだ」、「わが大学は自由な学問研究の場だといっているが、このままでは非民主的なアメリカだけの自由のため勉学させられることになる。真の自由をかちとろう。」等々。

 この日の総会では、声明文の発表のほか、アイゼンハワー大統領はじめ米関係機関、本土政府及び関係団体、学連、沖縄県学生会等への要請、協力打電、そしてとりくみ方針として、(1)1月20日に各市町村ごとに開催される住民大会への参加、(2)プライス勧告阻止。四原則死守のため組織される「軍用地問題連絡協議会」への正式加盟、(3)デモの実施。実施に際しては日時等単独計画ではなく、住民大会と連携して行う。

 これらの議決に加え、この問題に関する対策機関として、中央委員5名、一般学生10名で構成する「プライス勧告阻止特別委員会」(以下「特別委員会」と略称する)の設置を決め、これが問題解決まで学生会としての具体的行動の企画と推進に当たることになった。

 〈声明〉 このたびの「軍用地代の一括払い」「新規土地接収」に関するプライス勧告は、沖縄民族の将来に危機をもたらす暴挙に出ずる行為であり、われわれはかかる勧告に対し断固反対の意思を表明するとともに、四者協議会の決意を全面的に支持する。

 われわれはこの問題が明るい方向に解決するまで、自信と勇気をもってあくまでこれを阻止する行動をとる。そのために、全住民とともに四原則を堅持し、沖縄の各種団体との横のつながりを強化し、固く団結する。同時にわれわれは、祖国9千万同胞と世界の良識に訴えて、その協力を要請する。


 「特別委員会」の委員については、総会の場で推せんにより選任されたが、そのメンバー全員については手もとに記録がなく、記憶も乏しいが、学生会の三役(古我知、喜友名、喜舎場)のほか比嘉正幸、上江洲清光(後に中野に改姓)、与那覇佳弘、新垣勝一、神田良正、玉城健三といった活発な面々がそろっていた法政学科から多数選ばれていた。国語、国文関係では宜保幸男、山城賢孝ら、私もその一人に選ばれた。ほかに高山朝光らがいた。

 結果的にということではあるが、会長選挙で、古我知と争って敗れた比嘉正幸を推した側の顔ぶれが多数を占めていた。この特別委員会が、以後のたたかいをすすめる中心となる。

 (なお、土地問題とは関係のないことであるが、この総会の中で、某講師の講義についての不満が動議として出された。たぶん、時間延長について会長が申し入れに行っている間のことと思う。その問題となった講座(青年心理)は私も受講していた。提起の意味はともかく、議事をすすめる立場として、土地問題への対処という深刻な議論をしているさ中で、どう処理したものか迷ったが、同調の意見もあって、ともかく講義内容の充実をはかるよう当局に申し入れる、ということで納まった。ゆとりがあるというか、学生の生まじあさというか、こんな時にと内心苦笑したものである。議長をしていたということもあって、その講師と顔を合わせるのが気まずくもう少しで終了するところであったが、受講を止めてしまった。)


 学生会として正式に態度表明をしてから学内もあわただしくなってきた。まずさし当たって、二十日に市町村ごとに開かれる住民大会へむけてのとりくみとして、全学生それぞれ出身地の大会に参加することにし、特別委員も分散配置して、できるだけ意見発表が行えるよう主催者側に申し入れることにした。

 6月20日には全島各市町村で一斉に住民大会が開かれ、およそ15万5千人の人々が参加(那覇大会は美栄橋広場に約4万人)、歴史的な民族の大集会と報じられた。(当時は沖縄80万住民とよばれていた。)

 私は喜舎場くんと一緒に南風原村(現在は町)の集会に参加した。(その時点では、喜舎場君の家は壺川通りに面した美田に移っていたが、移転前は南風原小学校のすぐ近く、小さな店をやっていた。時々遊びに行ったこともある。南風原はいわば彼の出身地というわけで。)村の主催者は学生代表の意見発表もいれてくれたが、喜舎場君は遠慮したのか「お前がやれ」ということで、私が学生代表として意見発表をやることになった。どういう内容であったか、「黙っているとプライス勧告みたいなのがまかり通ることになる。ウチナーンチュも同じ人間だということを示すためにも立ち上がらなければならない。」というようなことを話したと思う。青年代表であったか「……年寄も子どもも、各政党もナンブセイトウも……」と熱弁をふるい、緊張の中ドッと笑いが沸いたことを憶えている。


 学内での仕事もふえてきた。54年頃から昼時中庭の片隅で「歌ごえ」をはじめていた。「青年歌集」で仕入れた労働歌やロシヤ民謡が中心である。徐々に増えてはきていたがまだ細々とという感じであった。が、運動をすすめる中で、みんなで歌える歌が必要だということになり、昼どきには中庭に大勢の学生を集めて下手な歌ごえ指導をしたものである。以後の集会等では開会前段の学生の歌ごえが恒例になっていった。声をかけると女子学生も積極的に参加した。


 6月23日には、先(18日)の確認にもとづいて16団体を中心に「軍用地問題解決促進連絡協議会」が結成された。(この日も琉大学生の歌ごえが会場をもり上げている)琉大学生会もこれに参加することになり、後には20団体となっている。

 同じくこの日、「四者協」に市町村議会議長会が加わり「五者協」となった。

 続いて6月25日には、那覇と中部(コザ)で第2回目の住民大会が開かれ、那覇会場に10万人、コザ会場に5万人が参加したと報じられた。

 こうして軍用地問題に対する住民の怒りは日ごとに広がりをみせていたが、一方沖縄側からの要請を受けた日本政府はその対応にもたついていた。沖縄住民に対して外交保護権があるかどうかについて、法務省は「ある」といい、外務省および内閣法制局は「ない」という見解に立ち、政府部内で対立していた。

 結局政府首脳部は、「法解釈で争うのはかえって問題を紛糾させる。軍用地問題は沖縄住民の死活問題になっているから、人道上の問題として訴える」という考え方を示していた。この沖縄の軍用地問題について国際法学者の間では、(1)土地の永代借地権などは、平和条約第三条で米国に委ねられた「施政権」の範囲を越えているのではないか。(2)平和条約第3条は果たして米国の永久的な事実上の軍事占領を許しているのだろうか。といった問題点を指摘していた。

 この時期の本土においての動きについて新聞は、「プライス勧告をきっかけとして燃え上がった沖縄の軍用地問題は国内に大きな反響をよんでいる。6月27日には沖縄から社会大衆党委員長安里積千代、民主党幹事長新里善福氏らの代表団が上京し、日本政府の善処を要請するとともに、広く各方面に“事実上の土地取上げだ”とその窮状を訴えた。これに歩調を合わせて国内の沖縄関係団体は、7月4日国民大会を開いて世論をさらに高めようと計画、また自民党と社会党との間でもこの問題を超党派的に取上げ、合同協議会を開くなど、沖縄土地問題は参院選や7月末に予定される日ソ交渉再開ともからんでむつかしい政治問題となった。(7月1日・沖縄タイムス・週間リポート)」

 国内世論のもり上がりの一方、鳩山首相は「土地を失った住民を他の島に移住させればいい」と語ったり、自民党の芦田外交調査会長は「沖縄は終戦当時よりはるかによい状態になっている」と、無知、無感覚ともいえるような発言があったりして非難をかっていた。


 沖縄内では、二度の住民大会を経て、一段ともり上がりをみせていた。新聞などでは“燎原の火のように”と、その広がりを表現していた。

 暴力的な土地とり上げで住む土地を追い出され、その土地が勝手に、永久に基地として固められるという。それが沖縄の何処ででも起こりうる状況に、住民の不安と怒りが蓄積され、火種をかかえこむことになったのだ。そこへプライス勧告という突風が吹きこみ一挙に燃え広がったということだろう。

 これからの問題は、たたかいを維持していくための住民組織をどうつくるかということであった。

 これまでの経過では、6月18日に四者協が闘争方針を決定し、6月23日には四者協に「議長会」が加わって五者協となり、その五者協が意志決定機関として四原則貫徹本部を設置した。

 同じく23日に「軍用地問題解決促進連絡協議会」(連絡協)が、当初の16団体に琉大学生会など四団体が加わって20団体で発足し、住民組織の中央指導部として各部落末端に至るまで「土地を守る会」をつくる方針のもとにとりくみをすすめ、すでに各所に地域組織ができつつあった。また「連絡協」では小委員会をおいて組織構想の検討をはじめていた。

 住民組織で残された問題は、中央組織の最高決議機関をどうするかということで、「五者協」がそのまま全住民組織の最高首脳部となるか、あるいは各団体を含めた決定機関を置くかということが論議の焦点となっていた。

 6月30日、「連絡協」20団体と五者協全員が立法院委員会室に集まり、初の住民組織の合同会議が開かれ、中央機関はどうあるべきかについて意見がかわされた。この日は結論には至らなかったが、五者協を中心に中央機関をおき、また全団体代表による中央委員会といった機関をおいて、相互に緊密な連携をとることによって全住民の意志を反映させていく、といった方式で調整をすすめていくということになった。

 その会議に琉大学生会としては、古我知会長が代表として出席し、私も傍聴した。

 偉い人たちが顔を揃えての会議で、学生会の発言は遠慮されたが、ともかくここでもたつくことなく、体面にこだわらず、住民のもり上がる気力を吸収しそれを方向づける中央の指導力の確立が早急に必要だと思った。

 この頃なお米軍は強硬姿勢を変えず「琉球政府当局が軍用地問題で総辞職すれば、米当局が完全な直接統治を行う用意がある。」(6月28日UP共同電)との報道もなされていた。住民の間では、中央指導部に対し、こうしたことへの確固とした対処を求める声も上がっていた。

 五者協は7月4日、プライス勧告に対する反論をまとめて発表した。

 「われわれの四原則という要求は、全く正しい主張であり、世論の国米国がこの全住民の声を決してききもらすことはないだろう」との期待をこめていた。この反論文を近日中にムーア副長官に手交することも決めた。そして総辞職決行の時期についての記者団の質問に対し、桑江土地連合会会長は、「レムニッツァー司令官が四原則を受け入れず、一括払い、新規接収の強行を命令した場合になろう」と答えていた。

 一方、ワシントンで開かれた米現地軍司令官会議に出席し、7月4日帰任したレムニッツァー米極東軍司令官(沖縄民政長官)は、羽田空港での記者会見で、「沖縄の軍用地問題について、何ら特別の権限をもって帰ったわけではない。地代の一括払いや接収地の拡大などについては最終的に決定していない。プライス勧告はいま検討中だから、その結果によって実施されるはずだ。」と語っていた。

 同じく7月4日には、沖縄問題解決のための国民総決起大会が、80団体参加のもとに東京日比谷公園で行われたが、同大会から「連絡協」あてに次のような激励電が寄せられた。

 「本日8千万国民は、国民大会において総決起した。沖縄80万同胞の四原則死守、プライス勧告 反対は我々の要求だ。日本国民としてすべての立場や条件を越えて四原則貫徹と沖縄の日本返還の ために、最後までともに闘うことを誓い激励のあいさつをおくる。」
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