>>TOPページ

私記:父の記録

琉大が燃えた日トップへ


前のページへ   次のページへ



燎原の火トップへ

二回目の総会 7月5日、2回目の学生会臨時総会が開かれた。

 前回同様学生の連署による開催要求によって開かれたものである。この日の議題は(1)プライス勧告阻止のため、本土への学生代表派遣について。(2)土地を守る住民組織の結成に関することであった。

 議題の内容が土地問題に関することで、前回からの継続的な事項ということで、再度議長をつとめることになった。

 本土への代表派遣についての趣旨は、問題解決のためには沖縄内でのたたかいの強化はもとより、本土同胞にも実情を伝え、国民運動に高めていく必要がある、というものだが、これに関連することがあった。

 先ごろ(月日は憶えていないが、土地問題が顕在化する以前だったと思う)私学連の田沢智治委員長(日大・後、参議院議員・法相)を団長に、教授1名を含む一行5名が琉大との文化交流ということで訪れた。その時、秋には私学連として琉大の学生代表を本土に招き交流を深めようということが約束されていた。

 総会では、その秋に予定されている招聘の時期を、7月か8月にくり上げてもらい、土地問題の実情報告のための代表として受け入れてもらおうというもの。このことを私学連に申し入れることを決めた。

 代表選出の方法については、動議によって直接投票で選ぶことになり、その場で直ちに選考に入った。まず推せんで10名ほどの候補者をあげ、その中から5名(うち1名は女性)を全員の投票で選ぶことになった。投票の結果は、古我知勇(学生会長・経済4年)、上江洲清光(法政4年)、比嘉正幸(法政4年)、嶺井政和(国文4年)、具志和子(国文2年)の5名が選ばれた。私もその中に入ったが、議長席に坐っていたので目立ったのかもしれない。

 土地を守る住民組織に関してはこれを積極的に推進すること。琉大学生会は「連絡協議会」に加盟しており、その基本方針に基づき各市町村の学生会としてその地域の住民組織に参加し、啓蒙運動等中心的な役割を果たしていく。その他街頭に出ての資金カンパを行うこと。たたかいは長期に及ぶことが予想されるが、いかなる事態が生じようともあくまで四原則を貫徹するため、全学生が一体となって行動する、ということなどを決めた。

 これらの確認をふまえ特別委員会では7日、市町村学生会の代表を集めて話し合いをもった。間もなく夏休みに入ることとも関連して、できるだけ部落ごとの地域懇談会を開くなど、帰省活動を取り組むことを確認した。

 また、高校生も関心を示し動き出していた。石川高校では生徒大会を開きその宣言文で「このような重大な時に、われわれ生徒は勉強のみに没頭できようか。我々は学徒としての本務を決して忘れるものではなく、あくまでも生徒として真に純粋な立場から今回の土地問題の解決促進にいささかでも寄与せんとして立ち上がることは何も躊躇すべきことでないと信じる。」と述べ、6月25日の那覇の住民大会では高校生も意見発表をしており、那覇高校、首里高校などの生徒会も声明を発表していた。このようなことから、高校生との話し合い、地域の学生会への参加等、連携をとっていくことにした。


 住民運動のもり上がりにもかかわらず米国側からは確たる応答が得られないまま、たたかいは長期化の様相を呈していた。この状況を打開し、事態を好転させる手段として、比嘉主席の早期退陣が効果的である、という意見が出はじめていた。

 しかし民主党は7月16日の総務会で、「現段階においては、主席は退陣しない。」という方針を決めていた。


 一方米民政府は7月17日、民政府布令第66号「琉球教育法」の改正第2号を公布、「学校所有地内における如何なる集会・集合も、当該教育委員会、当該理事会、又はこれらの代表者の許可がなければ催すことはできない」と規定した。

 これは住民大会やその他の集会で度々学校の校庭が使用されてきたことに対する規制を意図したものであった。これまでは教育法施行規則で学校長の許可を得ることになっていた。新たな規定は、同法第15章の6条として加えられ、この規程に違反するもので有罪と認められたものは5千円(B円)以内の罰金又は3カ月以内の懲役又は併科に処せられる、となっていた。この改正布令は、公布日(7月17日)から施行された。

 琉大学生にとってこの改正布令は、学生準則と合わせて二重の規制を受けることになったわけである。

 本土へ留学中の学生の帰省もはじまっていて、これからのたたかいをすすめていく上で連携をとっていくため、帰省学生との話し合いが度々もたれていた。この布令の問題についても共同で、「県民の要求を無視し、一方的に計画を強行するため、明らかに集会の禁止を意図する布令をもってわれわれの闘いを切り崩そうとしている。またこの改正布令は民主主義の原則である学問の自由、集会の自由を否定するものである。」と、その撤回を要求する声明を発表した。(7月24日)

 (なお、この布令は後に実際に影響が現れた。7月28日に開かれた県民大会においても、「プライス勧告阻止に立ち上がった県民の集会、言論の自由に対し大きな圧力を加えるものである」と、その撤回要求が決議された。)


 土地闘争を主導する住民組織のあり方について、五者協と連絡協議会との関係等、これまで意見がかわされてきたが、当面民間諸団体を結集した連絡協議会が住民運動を担い、五者協は米当局との折衝に当る、という形でいくことになった。

 そこで連絡協議会では、より機能的な形に組織を整備していくことになった。これまでは、連絡、提携のための組織として活動してきたが、これを事務局機構、会則をもった機関として強化し、会の名称も「沖縄土地を守る協議会」(土地協)に改め、以後の軍用地闘争にのぞむことになり、7月18日教育会館において結成大会が開かれた。(加盟団体は新たに沖縄仏教会が加わり21団体)

 結成大会は琉大学生の歌ごえに始まり、会則などを決め、会長に屋良朝苗教職員会長、副会長に竹野光子婦連会長と瑞慶覧長仁青連会長を選出、次のような宣言を採決した。

 〈宣言要旨〉 世界はこの正しいわれわれの抵抗を支持し温かい支援と激励の手をさしのべている。かかる世界の動きに逆らいアメリカ政府とその軍隊は惨酷な一方的計画を強行しつつある。今こそわれわれは断固として屈辱のくさりを断ち切らなくてはならない。

 われわれは独立と平和と民主主義の旗じるしのもとに祖国と民族を守り、県民の土地と生活を守るために四原則を死守する。そして一切のデマゴギーを粉砕し、欺まんを暴露して闘いの長期化と困難を克服し、常に闘う兄弟たちの先頭にたって「国土を一坪もアメリカに売渡さない」決意を固め、不敗の統一と団結を組んで鋼鉄のように抵抗する。われわれは歴史の鉄則の上に立ち「正義は必ず勝つ」ことを確信する。


 この新たに発足した「土地協」を中心に、以後の住民運動はすすめられることになる。会則は会の事業として、四原則完遂に必要な実践運動、土地を守る組織の強化などを掲げ、加盟団体の代表で構成される理事会を置いてその運営に当っていた。

 学生会では7月19日から学内でのカンパ活動をはじめた。去る5日の総会でカンパの方針は決めていた。これからの活動や本土への代表派遣(私学連からの確答はまだであったが)の準備等、闘争資金を必要としていたことからとりくみをはじめたのだった。

 学内でひと区切りをつけると、街にのり出すことになった。まず、特別委で手わけして那覇市内の商店街をまわることにした。私の組(誰が一緒であったかは憶えていない)が担当した区域は、安里から牧志へ向け国際通りの右側。蔡温橋のあたりは問屋が多かった。趣意書を配りながら協力をお願いするのだが、ムードがもり上がっている時だけに、そっけない対応の店は一つもなく、激励を受けこころよく100円(B円)ほど出してくれた。中には主人が留守なのでと、個人で応じてくれることもあった。(因みに、当時は三食付きの寮費の月額が600円であった。)カンパは好調だった。


 二度にわたって住民大会が開かれ、運動体としての「土地協」の強化をはかる等、活発な動きはみせていたが、この間問題解決への具体的な進展はみられなかった。

 さらに運動をもり上げていくことが必要だということで、「土地協」ではこれまでのとりくみを一つに結集した「県民大会」(はじめて「県民」の名が冠せられた)を7月28日に開催することを決定した。

 その頃、組織としては教職員会が最も強力で、五四年に労働三法ができたが、労働者の組織化にはまだ途上にあった。

 県民大会へむけての準備の中で琉大学生会は、ポスターの作成と那覇を除く本島内全域への張り出しを引き受けた。機動力では頼りになったのである。

 ポスター作りといっても当時のこと、機械印刷ではなく、型紙を作ってそれを一枚一枚ローラーで謄写していくのである。その作業が可能な器具を備えているのは人民党しかなかった。

 当時楚辺にあった人民党本部で、学生十数人を動員してその作業に当ったが、あの頃は米軍のアカ宣伝の標的になっているところ、普段はめったに近づかない。はじめはどの顔も緊張した面持であったが、しだいにほぐれ暑い中、汗をかきながら分担、交代で徹夜の作業をすすめた。何枚くらい刷ったか憶えていないが、本島全域分であるからかなりの数であったと思う。時間がかかり、くたびれる仕事であったが、誰も文句をいわず、あるいはこうした作業を通して土地闘争にかかわっているということを実感していたのかもしれない。

 翌日、でき上がった手づくりのポスターを市町村ごとにまとめ、琉大の学寮に運んだ。

 張り出しは、那覇市内については他の団体が分担して受け持ち、那覇以外は学生会が担当することになっていたので、男子寮の食堂に女子学生を含めて集まってもらい、出身市町村の分をそれぞれ担当してもらった。

 分担配布を終えてみると、学生がすでに帰郷していたのか、嘉手納(女子1人)と羽地が残った。羽地については私の出身地の屋我地と隣接しているので、同室だった伊志嶺恵徹君(宮古出身で手が空いていた)に手伝ってもらって二人で消化することにした。嘉手納は与儀貞子さん1人で、彼女1人に負わすのは気の毒なので、われわれが羽地への途中手伝うことにした。

 嘉手納で下車し、3人でカデナ基地の爆音を背にしながら午前中で張り終え、与儀さんの家で一息いれて北へ向かった。

 むろんすべてバス利用である。名護から、伊差川で降り、次のバスの時間までの間、目抜きの場所に張りながら田井等へ、そして乗りついで先へ行くのである。途中店先でジュースを飲み、ひと息いれながら店のおばさんに話しかけてみる。

 「遠いところをごくろうさんだね。みんなの問題だから若い人たちががんばらなくちゃ」と励ましてくれた。買い物にきた客も一緒になってひとしきり土地問題についての話が続く。羽地あたりは直接被害を受けるような米軍基地はないのだが、嵐山に測量が入ったというニュースがあったり、土地問題には等しく関心を寄せていた。

 「那覇は遠くて行けないけど、青年たちには行ってもらうさ。私たちが張るから二、三枚置いていきなさい。」とポスター張りにも協力してくれた。こうして屋我地のわが家についた頃は日も暮れていた。残ったポスターはちゃんと張るよう青年団に頼んだ。

 那覇で催す大会について“こんな片田舎までポスターを張りにくる必要があるのか、徒労ではないか”田舎の道を歩きながら特別委員会での論議を思い出していた。

 今回の「県民大会」は、これからのたたかいを進展させる上で重要な意味をもつ。全力をあげて圧倒的に成功させなければならない。ここまでは全員異存がない。そのためのとりくみの一つ、ポスター張りに関して。北部遠隔地は実際上参加はムリだから、那覇・中部を中心に重点的にとりくみ、参加の実をあげべきだ。という意見と、交通不便な遠いところはたしかに参加はできないかもしれない。が、ポスターは教宣の一つでその対象からはずすということは問題で、同じようにしてこそ一体感がもてるのではないか、参加はできなくても意識を共有するためにも必要ではないか、と。私は後者の意見を支持した。

 結局これにまとまり、学生会でひき受けることになったのである。
- 13 -



前へ      もくじへ      次へ