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私記:父の記録

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はじめてのデモ 7月28日の県民大会にむけては、全学生の参加体制をとるべく学内でのとりくみをすすめていた。総会でもデモの実施の方針を決めていたが、いつどういう形で行うか。特別委員会では総会の方針をふまえながら検討する中で、県民大会へのより効果的な参加の方法としてデモをやろうということになった。琉大の所在地首里から会場に予定されている那覇高校までの間デモ行進を行うというもの。これが市民へのアピールにもなるということで実施することに決まったのである。

 デモをすることになったがまったくの未経験である。当時は米軍の規制が強かったということもあって、大衆的な大規模のデモはほとんどみられなかった。

 法政学科の諸君は布令集をひっぱり出しては検討をはじめた。

 米民政府布令第132号「禁止される又は許可を必要とする示威行進及び集団行列並びに罰則」は、「公共街路又は公道において行われる50名を超える者の参加する示威行進、集団行列、行進及びそれを目的とする集会は、(米軍、警官隊等を除く)これを禁止する。但し(略)当該地区警察署長の発行する許可証に従って行う場合はこの限りではない。」と規定されていた。

 原則禁止である、が警察の許可を得ればよい。早速その手続きをとることにした。

 首里署に申請に行ったのだが(同行したのは誰であったかはっきりしない)それもすんなりはいかなかった。受付に出た係官も、ここでは取り扱ったことがない、と戸惑いをみせ、布令上のこと、必要書類のこと等、検討の上準備するということでひとまずひきとった。許可証の交付は他日になり、時間はかかったけれども、対応した係官は好意的であった。


 昼どきの歌ごえはずっと続けていた。県民大会が近づき、デモの実施がきまると気勢も上がり、広がりもみせていた。またこの歌ごえの集まりの中で、決定事項等短い情報の伝達をしたり、学内のふん囲気づくりにもかなり役立っていたように思う。

 学生会では、掲示や各学科の委員を通して学生への情宣をはかっていたが、狭い学内のこと、情報の伝わり方は早く、各学科やグループごと、自主的に大会参加の準備がすすめられていた。

 こうして街でも学内でも県民大会へむけてのうねりは高まりつつあったが、一方ではこの闘争のさき行きに関して気になることも出はじめていた。

 長期のたたかいは覚悟の上とはいいながら、(誰もが「長期に備えて」といっていた)実際に状況が動かず時が経ってくると、いろいろな思惑がはたらいてくるのだろうか、この時期上層部の間に懸念される動きがでてきていたのである。

 プライス勧告の摘要書が発表された当初、比嘉行政主席は自ら立法院に出向いて協力を求め、四者協(当時)で総辞職の決意を表明したりしていたのだが、強硬な米軍の姿勢の前に、「行政主席は米軍と住民の“緩衝地帯”である」といった発言や、民主党では内部の「主席の辞任は政治的に効果がある」という意見をおさえて、「現段階では退陣しない」ということを決定していた。

 こうした上層部のゆれをみてか、読売新聞に「五者協議会崩れる」との報道がなされた。この報道に対し五者協では「報道の内容は事実無根である」との声明を発表したが、このところの言動は「どうなっているのか、沖縄は大丈夫か」といった、内外に疑念を抱かたことは確かであった。

 また当間那覇市長は、米国コロンビア・テレビの放送記者のインタビューで、一括払いを容認するような発言をしたり、布令六六号「琉球教育法」の改正を受けて那覇区の教育長は「県民大会は政治運動であるから、校庭の使用を許可することは困難」といった見解を示すなど、運動をすすめていく上で、見のがすことのできない事柄が起こっていた。

 県民大会を控えて、これらの問題にどう対処していくか、一つの課題になっていた。


 7月25日、土地を守る協議会の理事会は、県民大会に関する議事を協議する中で、比嘉主席と当間那覇市長の退陣問題をとりあげ、論議のすえ、大会において退陣要求の決議をすることをきめた。

 比嘉主席については、土地問題についての最高責任者であり、住民の立場にたって土地問題の解決に当るべきで、「緩衝地帯」などと不遜な発言やあいまいな態度はとるべきでない。これが内外に悪影響を与え、沖縄側が妥協の線をさぐっているかのような印象を与えている。この際主席はその職を退き、県民の一人としてたたかいの戦列に加わることが県民の結束を強固にし、たたかいの前進がはかれる、と。

 当間市長については、外人記者に対しての一括払いに関する発言は、土地問題の重要な局面にある時期だけにその与える影響は大きい。不鮮明な釈明で解消する問題ではなく、指導者として自らの言に責任をとるべきである、ということである。

 また布令66号改正9号についても、住民運動に対して大きな圧力を加えるものである、とその撤回を要求することになった。

 会場(那覇高校)使用については、ポスター、チラシ等その予定で諸準備はすすめられており、この段階での変更は事態の混乱を招くという事情もあり、たとえ許可が得られなくても決行すべきだという意見もあって、その処理の行方が注視されていた。幸いにも土地協と那覇連合教育委員会との話合いの結果委員会はその使用を認めることになり、会場使用をめぐる混乱は避けられた。

 なお、「教育法」の問題については、この時期、教職員会を中心に布令を廃し民立法化をはかる運動がすすめられていた。56年1月30日立法院は教育四法(教育基本法、学校教育法、教育委員会法、社会教育法)を可決している。しかし米民政府の指示による主席の署名拒否で廃案となった。

 後のことになるが、可決、拒否がくりかえされる中、57年3月2日米民政府は、布令66号にかえて布令165号「教育法」を公布した。これは取締り的な内容を強化したもので、学校現場に多大な混乱をもたらし、いよいよ民立法化運動に拍車をかけることになった。

 三度目の立法院可決を受けて、バージャー主席民政官は「法案は不備であるが、主席の署名に何ら異議をさしはさむものではない」と書簡を送り、ようやく主席はこれに署名、布令による教育法は廃止され、「教育四法」は58年1月10日公布、4月1日から施行された。


 大会を前に比嘉主席は、「28日の県民大会には出席しない」ということを明らかにしていたし、「主席の退陣時期ではない」という立場をとっていた民主党も大会参加を見合わせることを決めていた。これまでの言動から予想されることではあったが、このように上層部は状況に対する対応の姿勢に違いをみせていた。けれども住民の、大会にむけるふん囲気はもり上がっていた。

 学内では特別委員会を中心に準備がすすめられていたが、はじめての全学デモを実行するとあってすこし緊張気味だった。

 デモの実施には警察の許可(布令)のほか大学の許可(準則)も必要であった。この方は学生会の役員の方で当った。土地問題の原則を逸脱しないこと、秩序を乱すことのないように等の注意は付されたが、特に問題となるようなことはなかった。学生会としても必要以上に勇ましく威勢を張るつもりはなかった。またデモの実施を具体化する段階においても、県民大会の成功ということを第一義に、プラカードなどは「四原則貫徹」を中心に土地問題にしぼること、統制には学生会役員と特別委員で当り、トラブルがないように留意すること、などが確認されていた。


 7月28日当日、午後4時全員記念運動場(現在の首里城・レスセンターの場所)に集合した。まずここに集結し、集会を開いて後、隊列を整えてデモに向うという段取りだった。集会では会長があいさつ、デモに関する注意事項を伝え、出発の準備にとりかかった。プラカード等についても一応点検、私どもの視点からは特に問題になるようなものはなかったように思う。が古我知会長がいくつかとり除いたようであるが、それがどういう表現のものであったか私はみていない。(なお「日の丸」の鉢巻が散見されたが、これは協議によるものではない。)

 隊列は三隊に分け、統制には学生会役員と特別委員が当った。古我知会長は、大会で学生代表としての意見発表があるからということで、当人の申出ででデモには参加していない。よって事務局長の喜舎場君が統制委員長をつとめることになり、各隊の責任者として、第一隊嶺井、第二隊神田良政、第三体与那覇佳宏とし、各隊に委員を配置した。

 美術科の諸君が共同で、琉大の校章(大学の文字を芭蕉の葉でかこむ円形のバッヂ)を形どった大きな旗と、同じく美術科の手になる、握りこぶを中央に描き、その両横に“団結”と大書し、両端にとりつけた取手を二人で持つ看板を作製していた。

 その旗とカンバンを先頭に、“若者よ”の歌ごえと共に威勢よく出発した。

 坂を下り男子寮の前を当蔵の通りに出て那覇に向う。その左折する角にあった首里署の前には数人の警官が立ってデモをながめていた。沿道の人々は手をたたいて声援を送っていた。山川を過ぎた坂道は松川まで人家が途絶える。旧道は現在の首里ハイムのあるあたりを大きくカーブしていた。

 坂下あたりから急ににぎやかになってきた。沿道には人々が出てきて、ずーっと連なって盛んな声援をおくっていたが、その中に混ってCICらしい外人があちこちでカメラをむけシャッターをきっていた。良からぬ意図と知っていて写真を撮られるのはいい気持はしない。が、まともな相手ではないから、ともかく堂々と行進を続ければいいと、みんなにも気にしないよう注意をした。ふと気づいたのだが、中村学生課長が沿道の人ごみの中を歩いている。首里署の許可証を交付した警官もいた。が気づかないふりをして合図はしなかった。

 私は第一隊の責任者であったから先頭を歩いていた。(先頭では、総指揮の喜舎場君のほか伊礼孝、名嘉順一らがスクラムを組んでいた)

 前方にいて、後方での出来事は直接見ていないが、坂下あたりで帰省学生の一団がデモに加わったようである。(帰省学生との共同行動については別途中部での計画が話合われていたし、このデモへの参加は彼らの自主的なものであった。)

 沿道のにぎやかさということもあって、しだいにデモの気勢も上がってきたようであった。一斉のかけ声が上がってきたのは後方からで、徐々に前方にも伝わってきた。カメラを向けるあやしい外人の刺激もあって「ヤンキー・ゴーホーム!」の叫び声もとび出したらしい。

 今でいえば「シュプレヒコール」ということになろうが、デモは未経験ゆえにそうしたことには考えが至らなかった。だから一斉に叫ぶ文言についても検討されてなかったし、あらかじめ用意されたものではなかった。

 牧志から山形屋に至るあたりは大勢の人々が出ての声援に気分をよくし、“ワッショイ”のかけ声に合わせてスクラムを組んでの小きざみ前進、遠慮がちのジグザグになった。後の方がもっとにぎやかであったようであるが、たぶん本土で経験のある帰省学生にリードされたものではなかったかと思う。途中要所には交通整理の警官が配置されていたが、何らのトラブルもなく、注意を受けることもなかった。

 会場の那覇高校に着いたときは、開会(午後8時)にはまだ間があり、人々の集まりもまばらであった。デモの興奮はまだ続いている。景気づけに隊列のままワッショイのかけ声で場内を一周、隊列にかけこんで加わる人々もいて大いに沸いた。

 首里からの長い道のりであったが、くたびれた顔はなく、汗をふきふきひと息いれ開会を待った。時がたつにつれ続々と人びとがつめかけ、またたく間に会場を埋めた。

 当時の那覇高校は、東側に瓦葺きの校舎が並び北側はスタンドになっていて広いグラウンドをもち、陸上競技の全琉大会なども催されていた。道向かいの城岳は遊園地になっていて、たぶん県内でははじめてのものではなかったか、ほかには無かったように記憶している。陽が沈みかける頃、集まった人々はスタンドはもとより校舎の屋根も鈴なりで、城岳の遊園地に上がる石段も埋め、この日の参加者は15万人と発表された。

 一方米軍の方では、住民と米人とのアツレキを防ぐためということで、夕刻から泊、安里、久茂地など那覇市内に入る要所にMPを配置して、米人たちを市内に入れないよう警備していたようである。
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