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私記:父の記録

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 8月11日、学生会では、謹慎処分の決定、それが民政官によって拒否されたというこの間の動きについて、学生には何らの説明もなされていないことから、大学当局に事情説明を求めた。が、安里学長、翁長事務局長ほか理事は、民政府によばれて不在で改めての理事会との話合いを申し入れた。

 民政府から戻った安里学長ほかの理事は、「言明」にあるようにバージャー主席民政官から手きびしいお叱りを受けたのであろう、直ちに臨時理事会を開いた。

 学生の処分問題に発展しつつある琉大の出来事は、学外にも反響をよんでいた。

 教職員会の屋良会長は次のような談話を発表した。
 「土地を守る運動は今や島ぐるみの運動たる性格をもってきた。だから全県民がそれぞれの立場でこの運動に参加するのは当然である。琉大の学生がこの運動に参加したことも土地を守る純真な気持からであって決してイデオロギーや反米的な気持からではない。かりに行過ぎがあっても話せば虚心に反省して協力してくれるのが学生の特質である。かの中部地区大会における学生の良識的措置によっても判ることである。大学理事会がこの度の学生の行動に対して処罰で報いることは教育的立場から納得できるものでなく遺憾至極である。これでは正しい意味の学園の自由な雰囲気を育てることはできないのみか不当な圧迫となり、決してよい結果はもたらさないと思う。理事者の猛省をうながしたい。」と。

 この日(11日)バージャー主席民政官はライカムでモーア副長官とオフリミッツについて話合っているが、そのあと「今回のオフリミッツの責任者は比嘉コザ市長、琉球大学及び三新聞である。琉大では数ヶ月前に琉大新聞に不穏なことが書いてあったが、その時にでも琉大側は書いた生徒を処罰すべきだった。琉大の理事は頭が古いので若い人だったらそんなことはさせなかっただろう。」と語っていて、コザ市長や新聞にも八つ当たりしている。

ここでいう「琉大新聞に不穏なこと」とはどういう記事をさしているのか明らかでない(確かめていない)が、あるいは「琉大文学」をさしているのではないか。「数カ月まえ」というから、琉大文学は4月発刊停止、新聞は注意を受けていない。余計な詮索かもしれないが、副会長と事務局長を平気でとりちがえるのだからあり得ることかと思う。ともあれ、常時琉大に対する監視の眼を光らせていたことがうかがえた。

 学生会では、理事会との話合いは実現しないまま、まわりの動きに気をもみながらこれからの対処策等について論議をくりかえしていた。

 いま学生は、自ら信じて行った行動に関して、とんでもない事態に直面しているのだが、自分の正当性を主張する場をもち得ないでいる。理事会は民政府との対応に追われ、こちらに顔をむけるいとまがない。学生を集めて大衆行動をとろうにも夏休みで帰省していて不在である。また何らかの方法で学生に緊急集会をかけたにしても“集会禁止命”が出ている中、大学当局との間に新たな問題を惹起しかねない。黙っているわけにはいかないのだが、その有効な手段を見つけ出すことができずにいた。

 ともかく、学生会としての立場、考え方を明らかにしなければならない。全員が一致するところ「われわれの行動は、沖縄の全住民が立ち上がる状況下でのとり得る正しい行動であった。これに対する処分はまさしく不当である。」ということを柱に声明文の起草にとりかかった。

 悩みごとの一つに学生会には会議のできる場所(事務所)がないということであった。(事務所は講堂の一画にテーブルと書類を保管する程度のスペースしかなかった)

 普段の会議は教室を使っていたが、夏休みで閉鎖されている(当局は使用を許可するはずもなかったが)ため、学寮の食堂や私の部屋を使っていた。電話もなく、連絡場所の特定もできない。役員や特別委員は自然に寮に集まってきたが、事態を気づかって大学に出てくる学生に、状況を説明し意見をきくなど、これらを統括することはできなかった。
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