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私記:父の記録

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 大学側としてはかなり強い姿勢で抵抗しているときいていたし、厳しい処分はないだろうと思っていた。また評議会内部には、もし学生側に大きな犠牲を出すようなことがあれば引責辞職も考えるという重大決意もなされていたと伝えられ、学生会としても評議会のそうした態度に期待するところもたしかに大きかった。ところが理事会、評議会ともに米軍側の意向を全面的に呑んだ形となったのである。

 学生会としての正式な態度表明は改めて発表することにして、とりあえず次のような土地問題特別委員会の談話を発表した。

  「評議会の強固な態度に期待し、われわれ学生を擁護するものと信じていたが、理事会と評議会は民政府の卑劣な処置に抗することができず、遂に6名の除籍と1名の謹慎を承認したことは、われわれとして絶対に承服できるものではない。植民地大学への第一歩を踏み出している本学の将来には大学の存立基礎である自主と独立はあり得ないものと憂慮するものである。

 学生会としては7名の学生がこのような不当な措置をされる理由は決してないと信ずる。また7名と共にわれわれ学生会の四原則貫徹運動は正しかったことを再確認し全県民とともに今後も闘う決意である。」

 学生会では直ちに学長及び理事会に面談を求めた。

 処分発表の声明の中では処分者の氏名は公表されていなかったが、指名で呼び出しがあり自分も対象者のひとりであることを知った。(処分通知書は保護者あて送られていた。)

 その時私はすこし熱を出し頭が重かったように憶えている。(対象者は揃ってなかったが)安里学長には学長室で会った。さすがに憔悴しきった顔をしていた。8月9日以来、会議を重ね民政府との折衝等、疲れたことはたしかであろう。けれども、まさしく不当な処分を受ける学生側の立場からすれば同情しているわけにはいかない。学生側からは次々と質問や意見が出された。

 私は気分が重かったこともあってあまり発言しなかったが、最も詰問していたのは与那覇君であったかと思う。

 「学長ははじめ、学生からの犠牲者は出さない、と明言なさった。それは学生の行動が処分には値しないと考えたからではなかったか。私たちは何らのトラブルも起していないし、このように問題にされるようなことはなかったと確信している。反米だという米軍の一方的な判断だけで処分を強要するのは大学本来の姿をゆがめるものであり、それを受け入れた形の学生処分は、とうてい容認できるものではない。処分は撤回すべきである。」等々。

 じっときいていた学長は、とくに釈明するようなこともなく、おしころしたような声で「大学の存立にはかえられない。処分学生については責任をもつ。」と答えただけだった。

 理事会は、ようやく学生会との面談に応じた。事が決まってからである。何事であれ、処罰に際しては、される側に釈明の機会が与えられるのが当然である。そうした機会すら与えられなかったことに、理事会に対する不満もあった。

 会場は図書館の会議室だった。前上門理事長ほか理事と学長、事務局長らが参加していた。

 学生側からは、「理事会は当初、異論があるなかで数名の学生を謹慎処分にすると発表した。われわれとしてはそれすら認め難いことであるが、民政府の圧力があったとはいえ、“除籍”とはどういう根拠によるものか。学生にとって大学を追われ学業の機会を奪われるということは最悪である。それに値する如何なる行動があったのか。“ヤンキーゴーホーム”と叫んだことが問題になったようであるが、それは計画的になされたものではなく、言葉は感情的に発することもある。もしそれが行き過ぎだとすれば、そういった刺激的な発言は慎むよう注意で済むことではないか。処分を受ける側である学生の意見、釈明は一切聞かず、一方的に処分を下したことはまさに不当であり、撤回すべきである。」と糾弾した。

 理事長は「みなさんの気持は分からないでもないが変更はむつかしい。私たちは責任上、大学の存続を図らなければならない。大学のおかれている立場も理解してほしい。」との返答。さらに「大学の自治、設置目的にも示されている自由の助長ということは一体どうなるのか」ということにも、「大学はいまきびしい岐路に立たされている」と、話合いの進展はみられなかった。

 やりとりの中で、学生の詰問に対し翁長事務局長は、ムッとした表情で「それはバージャーに聞け!」とつき離すような発言をした。二度くりかえしたと思う。理事者(財団理事)として、無責任な何たる返答だと頭にきたのもたしかである。(後々思うに、あのような発言をしたのは―この間大学と民政官との板ばさみになって苦悩してきたことは分かっていることではないか。いまさら何をきこうというのだ―と、いらだたしい気持が言わせたのではないかと考えたりする。)

 ともかく、除籍という最高の懲戒をもってした理由は「大学の存立にはかえられなかった」という一点にあるだけで、学生の犠牲の上に「上からの廃校処置をくい止めた(理事長)」と言うことであった。

 理事会との直接の話合いはこの一度きりであった。
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