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私記:父の記録

琉大が燃えた日トップへ


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矛先は琉大にトップへ

火災とともに 9月3日、消防車のサイレンの音に起されたのはやんばるから帰った翌朝だった。小走りに坂を上っていく。図書館は上階から黒煙をふき上げていた。

 中庭には大勢の人々がつめかけていた。近くの首里高校生の姿も多数見かけられ、ビルのまわりでは荷物(書籍等)を運び出しているのか、人々がせわしく動きまわっていた。その手伝いにかけ出すでもなく、ただ呆然とその情景をながめていた。

 燃えているのは上方の4・5階である。その日は風が強かった。折からの台風ダイナの余波で10米余の風が吹いていて、その強風に煽られて火のまわりが早かったという。

 しばらくして火は鎮まりかけていたが、ぼんやりとうろついているところを仲宗根政善先生に会った。あいさつをすると、「あ、嶺井君か」といって図書館の方を見つめながら「不幸中のさいわいだった」と、ひとり言のようにつぶやいた。どういうことかとっさには理解できなかった。けげんな顔をしていると、「火もとが分ったんだよ」とにっこりなさった。

 後にきいた話だが、その日豊川君も火事の知らせに素足でかけ出したら、途中で知人に追い返されたという。喜舎場君も美田の家をとび出して与儀あたりまで来たところを、追いかけてきた兄さんにつれ戻されたということだ。

 琉大は処分問題のさ中にある。琉大が火事だときくと人々は「学生たち、とうとうやったな」と、処分問題と火事を、ぴんと連想したようである。豊川が追いかえされ、喜舎場がつれ戻されたのは、疑われるからじっとしていろ、ということであったようである。

 当時琉大構内の西側の端に放送局(琉球放送ラジオ)があった。図書館は眼の前にある。いち早く番組をきりかえ、図書館火災の実況を放送した。だから火事の伝わり方も早かったし、同時に「さては学生が…」という噂も方々でおこっていたようである。そんなことは全く念頭になくみんなとび出して行ったのだが…。

 私は追い返される人に出会わず、現場をうろついているところを仲宗根先生に出会ったのであるが、先生もその噂を耳にしていたのであろう。だから「不幸中の幸」というつぶやきが出たのだ、とかなり間をおいて理解した。もし原因が不明で、噂のような疑いがかかったら、私はひとりで寝ていたし、アリバイ証明のしようがなかった。また前夜は、伊礼孝ら数人が国文科の研究室で話合いをし、おそくまで残っていたという。状況証拠はきわめて不利であった。が、出火は四階のミシガン教授団の一室からだった。そこから火が出ているのを女子職員が目撃していた。

 午前10時半ごろ鎮火したが、4、5階は全焼、3階から下は無事で、書籍類も助かったようであった。

 火災原因について民政府は、ミシガン教授団室の漏電による、と発表していたが、警察では失火か漏電かなお調査中であった。その結論が出ない中、当の教授は学会出席ということで本土に渡っている。

 5階は文理学部の研究室であった。もろに被害を受け、教授たちの研究書類等もすべて焼失していた。
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