8月26日の文理学部教授会では、学生の処分問題についての最終的な結論は得るに至らず、9月3日に再開される予定だった。図書館火災の日である。この日、文理学部の教授会が開かれるはずであった。それが早朝の火災でけしとんでしまった。
さらに5階の研究室が全焼し、その被害は文理学部に最も大きく及ぶことになった。教官にとって研究物の焼失は最も痛いことに違いない。後期の講義開始にむけて、新たに資料準備をしなければならないということが当面の関心事ではあったろう。
先述のように、処分問題については文理学部も妥協点をさぐる方向に動いていたが、火災という思わぬ突発事件に、すっかり後方に押しやられたようである。学内の話題は図書館の再建の方にむいていた。
処分問題は、火災にのみこまれた感があった。
処分問題をめぐる当時の教授会もようについて、沖縄タイムスの「琉大風土記」で、若手教授といわれたみなさんが述べているところを引用させてもらうと。新城利彦教授「大学の自治を確立していくためには、軍のいいなりになってはいけない。特に入学・卒業・退学・賞罰については、外部のくちばしを入れさせるべきではない。それが大学のあるべき姿だと思っていたから、学生の処分にも反対した。しかし教官のなかには“君たちは若いし一人者だからそういうことが言えるんだ”という人もいた。」、砂川恵勝「7月28日の集会にはわれわれも参加しており、学生たちの気持はよくわかる。若手の教官は“これで大学がつぶれるならつぶした方がいい”と強硬な意見をはいた。そしたら“あんた方はそんなことをいうが、私たちは後から鉄砲をつきつけられ、どうにもならないんだ”と。」、久場政彦「土地の一括買い上げに対しては学生だけでなく住民も反対していたのだから学生だけ処分されるのはおかしい。そういう考え方はだいたい皆一致していたと思うが、だんだん泣いて馬謖(しょく)を斬ることも必要だ、という空気になっていった。」と語っている。
問題は一つだが、当初の空気とは明らかに変わってきていたのである。
外では、民主党内に混乱があった。この間の民主党は、土地協の解散を主張したり、「四原則は原則であって条件ではない」(星政調会長)という発言があったり、「無定見、無性格、無言の民主党三原則」といわれ、本気で土地闘争を考えているのか、まわりから非難が集中していた。また比嘉主席(民主党総裁)の「緩衝地帯」発言以来、独断が目立っていた。
こうした党内事情に反撥して9月1日新里幹事長が脱党した。新里氏は最初の本土派遣代表として安里積千代、知念朝功氏らと共に対本土折衝に当ってきた。総辞職覚悟で立ち上がった当時の状況に比べ、この頃の民主党の動きはがまんならなかったのだろう。また真喜屋法務局長も「土地問題の主管局としてこの状態では協力できない」と辞任した。
こうした中で立法院では、民主党の一部にも不満が残っていて、主席不信任の動きがあったが、民政官の「不信任すれば断固たる措置をとる」との発言があったり、結局不信任は不発に終った。
一方、土地闘争をすすめる組織問題については、ようやく決着がつき、9月20日(この時私は不在であったが)「土地を守る総連合会」として結成総会が開かれた。この「総連合会」は、市町村土地を守る会及び本会の趣旨に賛同する各種団体で構成されるとし、土地参加の団体は、それぞれこれに加入することになった。
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