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私記:父の記録

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矛先は琉大にトップへ

本土へ 私どものはじめた歌ごえは学内にとどまっていたが、職場や地域にもサークルができて広がりをみせ、歌ごえセンターもできていた。県民大会では合同で大会をもりあげる役割を担った。それ以後時々連絡会をもち、互いの交流と連携をとってきた。まだ歩みはじめたばかりで、ささやかであったが、そうしている中、9月23日に大分市で開かれる「全九州の歌ごえ実行委員会」から、沖縄代表を招待したい旨、その派遣を要請してきた。

 土地問題のさ中にあって、全国的に沖縄が注視されている時期、実行委員会ではこの機会に沖縄の実情を伝えてほしいという意向もはたらいていた。連絡会では検討の結果、十分な態勢にはないけれども、いい機会であり派遣の方向でとりくもうということになり、その中の学生代表1名の選考を依頼された。

 このことをもちかえって学生会にはかった。学生会では先に喜舎場君を県民代表として派遣したが、私学連との関係で独自に計画していた5名の代表派遣は、処分問題が発生して動けぬまま実現していない。協議の結果、嶺井を派遣することになった。私が歌ごえにかかわっていたこと、前に代表に選ばれていてパスポート等すでに準備ができていること等による。歌ごえ大会への参加だけでなく、合わせて私学連その他関係団体とも連絡をとり広く実状を伝えるということになった。

 処分問題は停滞していたが、後期のはじまる10月以降の再構築に期待をかけて出かけることにした。
 九州の歌ごえ大会への派遣代表は次のメンバーであった。

 渡口健(那覇市役所)、赤嶺成輝(工員)、渡慶次道宣(商業)、儀間トミ子(家事)、大城幸子(軍雇用員)、それに嶺井の6名。

 9月18日船で那覇を発った。以下詳細は省略してスケジュールとその要点のみを記すことにする。

 9月19日鹿児島着。連絡はいっていたのでその夜は鹿児島の歌ごえの皆さんとの交流会が準備されていた。

 20日、鹿児島発大分へ。実行委員会の皆さんの出迎えを受け旅館へ。これからの日程の説明を受け、懇談。

 21日、実行委員の案内で、市長や市内の主要な団体へのあいさつまわり。

 22日、前夜祭。創作曲(19曲)が披露され、審査の結果全司法福岡高裁支部作詞・作曲の「沖縄を返せ」が第1位に選ばれた。審査員は関鑑子、芥川也寸志、北川剛ほか。

 これが沖縄返還運動で歌われた「沖縄を返せ」の誕生で、しばらくこの曲で歌われたが、後に荒木栄の曲に変り歌いつがれた。なお、「沖縄」という曲もあったが5位だった。

 23日、午前10時から全九州の歌ごえ祭典。県体育館を埋めつくして催された。沖縄が注目の的。実行委員長のあいさつの中でも「はるばる沖縄の現地よりこの祭典に参加のみなさん」と紹介があった。順番(特別出演)がきて沖縄の6名がステージに上ると場内は沸きかえり、歌のできばえはどうでもよかった。

 創作曲の「沖縄を返せ」はこの中でも紹介され、歌唱指導もあって、またたく間に広まりそうな勢いを感じさせた。

 この祭典のカンパにより、沖縄の歌ごえのためにとアコーディオンが贈られた。

 24日から28日、祭典実行委員会では、祭典の後沖縄代表には県内各地をまわってもらい、懇談会を開く計画をたてていた。それに従って、二組に分れて各地をまわることになった。

 私の組(赤嶺、儀間、嶺井)のまわったところは、24日鶴崎、佐賀の関。25日津久見、旧杵。26日大野、三重、竹田。27日高田、宇佐。28日佐伯。

 29日は休息。別府の地獄めぐりを案内してもらう。この日で解団。

 30日、大分発広島へ向う。本土へ渡るのは初めてである。これまでは一団だから不安はなかったが、以後は一人旅である。県学生会とは連絡がとれていた。

 広島駅には広島大にいた儀部景俊君が迎えに出てくれた。夜学生会と懇談。

 10月1日、広島県教組、県労評などを訪問、これからの訪問先のため、協力をお願いし、大原亨評議長(後、衆議院議員)の紹介状をいただく。夜は大学人の会と会った。

 2日、竹原町へ。広島大に在学していた屋良朝樹君が同行してくれた。大原議長の紹介状を頼りにめぼしい労組を訪ねる。県評からも指示があったようで夜は組合の事務所に多数集まった。

 3日、三原市。ここには広島大の分校(教養部?)がある。昼間はそこを訪ねて数人の学生と懇談。県評からの連絡もいっていて、「現地学生による沖縄問題報告会」の看板も出ていた。電産労組(中国電力)が出したようである。夜の集まりには労組員、学生など100人余が集まった。

 4日、尾道へ。ここまで屋良君もついてきてくれた。彼と別れ私は四国・今治へ渡る。四国学連の森田氏(沖縄に調査で来て、東村まで一緒に行っている)との連絡はとれていた。松山の駅には森田氏らが出迎え、記者も数人手配されていてインタビューを受けた。翌日の新聞には大きく出たが「元琉大生」とあるのには弱った。松山には6日まで滞在、愛媛大を中心に四国学連、労組などと懇談をもつ。

 7日、松山をたち、高松から宇高連絡船で宇野へ渡り岡山へ。岡山では県学生会との連絡がうまくいかず(私がたえず動いているのでいきちがいになったのかもしれない。電報は打っておいたのだが)、8日一日は空いた。後楽園へ行ってみた。郭浹若から贈られたという鶴がいた。

 9日、大阪へ。関西の私学連とは連絡がとれていた。大阪駅へ着いたのは夕方。大都会の駅の人混みは初めて。迎えは出ているはずだが、この雑踏の中では見失っては困る。そう思ってゆっくりと後尾から改札を出た。が、それらしい人は見当らない。しばらく改札口のあたりをうろついていたが、ともかく身軽になろうと、手荷物預り所をさがして手続きをしていたら、「沖縄のミネイさん中央案内所へ……」とアナウンスがきこえた。大急ぎで荷物を預け、中央案内所を探していってみたが、そこにはもう迎えらしい人は見当らなかった。大阪の初日は迷子からはじまった。

 日は暮れている。連絡のとりようもないから明日ということにして、ともかく寝ぐらを、とタクシーの運転手に頼んで案内してもらい梅田の近くの旅館に落付いた。翌朝私学連と電話で落合う場所と時間を確認し、ようやく握手することができた。

 私学連関西の事務局は大阪商大で、ここに在学の内薗氏は私学連の事務局長で、琉大との交流にも来沖していた。学連の計画にのって行動をする。14日まで大阪滞在。

 マスコミも好意的にとり上げてくれた。大阪毎日には写真入りで大きく出たし、ラジオのスタジオに招ばれて対話もした。が、私学連の発表として、琉大の処分学生を全面的に本土の大学に私学連として受け入れる、という主旨の記事が出た。来阪中の「嶺井君もこの暖い好意に感激している」とある。

 これは私が転学運動に来たような印象を与えるので困る。処分を認めているわけではないから、と改めて記者会見を頼んだ。その内容は、10月13日付沖縄タイムスに「嶺井君関西で語る」というサブ見出しで出ているが、その要旨「各方面で非常な同情と歓待を受けて感謝している。関西の私学連のみなさんがわれわれ処分学生をこちらの大学に転学させていただくというそのご好意には心から感謝する。しかしわれわれとしては、あくまで現地における闘いを続けていき、初志を貫徹したい。他の5名の諸君も同じ気持で、処分撤回が先決問題であり、ご好意を受けるのは二次的なことと考えている。今後も沖縄の広範な問題を訴えていきたい。」

 現地琉大では後期のはじまる10月1日から処分撤回の署名運動などがとりくまれているということは伝わっていた。が、奇しくも10月12日、琉大では臨時中央委員会が開かれ、これまでの大学側との折衝の結果から、処分撤回の要求は、実現不可能なことが明らかになっており、これを強行すると新たな犠牲者を出し、換えって事態を悪くする。今後は処分学生の救援に力を注ぐべきだということに意見が一致し、これを決議した。という。このことはむろん私は知らなかった。

 それから14日まで、私学連の日程で関西の各地、大学をまわった。

 15日東京へ。駅には、私学連の委員長で琉大との交流団の団長として来沖した田沢氏らが出迎えていた。

 秋葉原にある日大の校友会館を宿舎に、私学連の計画にのって在京日程をこなす。

 当時日大には仲本安一も在学していて、私学連の活動にかかわっていた。早稲田にいた平良洋一も訪ねてきてくれた。ちょうどその頃は砂川闘争と時期が重なっていた。砂川の激しい衝突のニュースは大阪できいた。東京に向ったのはその直後だった。

 私学連には個人的な用事もあるのでと一日あけてもらった。平良君につき合ってくれるよう相談をして、その日全学連を訪ねた。田中総務部長?が対応し、話をきいてくれた。昼時だったので近くのレストランでカレーライスをごちそうになったのを憶えている。その後砂川へ行った。あれから数日経過していたので、現場は静まっていたが、一面の畠は踏み荒され、芋は肌をむいていて、当日のはげしさを思わせていた。

 東京の日程も終りのころ、拓大で学生会との話合いがあり、そのあと学生会役員の案内で東恩納寛淳先生にあった。先生は大層元気で、琉大の状況を話すと「そんな大学はつぶせばいい」とおっしゃった。その時、持参した資料を、そちらで役立ててほしいと置いてきた。(いま手もとに当時の資料がないのはそのせいもある。)その資料は学生会がひきとったのか、先生の手もとに置いたのかは分らない。会った場所は図書館だった。

 10月23日、東京での日程を終え、夜行で大阪へもどる。神戸から帰るつもりだった。

 25日、比嘉主席の急逝を知ったのは梅田の駅前だった。その日夕、向いのビルの電光ニュースがそのことを伝えていた。沖縄の事情からいって、これは大きなできごとであろう。この先状況はどう展開していくのだろうか。しばらくそこに佇んでいた。

 学連の関係は、おおかた前に済ませている。船便の関係もあってすこし間ができた。大阪には親戚もいるので顔を出したいと、フリーの時間をもらった。

 幼なじみである大嶺実清が大阪にいた。彼は立命館に籍を置くかたわら美術学校にも通っているということだった。久しぶりに会い一日つき合ってくれた。親戚を二、三廻ってあいさつをし、のんびりしたい気分もあったから二人で映画を見た。「白鯨」だった。

 28日、神戸を発つ。すこし長旅をしたようだ。沖縄の状況については、大阪で凡そのことはきいていたが、現場を長く離れていると不安になるものである。あれこれ思いをめぐらしても致し方のないことではあるが。

 那覇へ着いたのは10月30日だった。
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