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私記:父の記録

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 激励文は、私が屋我地に帰っていたその頃に準備されたようである。長居をするわけにはいかず、すぐ首里に戻ったが、状況は相変らずであった。

 26日の文理学部教授会では、各補導教官が学生の説得に当るということも話合われたようであるが、特に反対行動を自重するよう説得された記憶はない。仲宗根先生や嘉味田先生にはこの間幾度か会ってはいるが、私どもの行動をとがめるようなことは一言もきかなかった。

 「困った事態になったものだ」と悩ましい顔をなさっているから、「ご心配をかけます」というしかなかった。処分通告を受けた者7人の中、4人が国文学科である。処分される側が、相手側ともいえる教官に同情するのもおかしなはなしではあるが、過半数の対象者をかかえて、学内での対応でもずいぶんと苦労をなさったかとは思う。当初は誰もが処分はあり得ないと考えていたのだから、どう説得するのかも悩ましいことであったかと思う。

 こうした学内問題としては処理し難いところにこの事件の特質があった。学内の動きは静かになっていた。

 学生会として、学生を中央に集めての行動は事実上困難であった。指導部は不揃いで、夏休みはあと一月余も残している。出かけて行って学生や地域の人びとを集め、実情を報告することも必要ではないか、ということで私は北部へ行くことにした。不満と不安をかかえてじっとしているより、動き廻りたい気分もあった。

 地域まわりといっても車や宿の手配があるわけではない。バスを利用し宿も自前で考えなければならない。

 宮城妙子さんが寮に残っていた。彼女は東村の出身である。東へ行くのなら彼女が手伝うという。お願いすることにした。

 彼女の家は東村の平良だが、姉さんが川田に嫁いでいて、家も広いし宿泊には心配ないから川田にした方がいいという。そうすることにして、彼女は手配のため先に発った。

 ちょうどその頃、沖縄の実情調査と琉大学生との交流のため、四国学連の派遣ということで森田(名は憶えていない)という愛媛大の学生が滞在中だった。残っている学生との意見交換等を行ったりしてきたが、こちらの事情としてもこまごまと面倒をみる余裕はなかった。私の東村行きをきくと彼も同行したいという。

 8月30日、特別委員の一人であった山城賢孝君と三人で出かけることになった。

バスで那覇を出て、名護で乗りつぎ、東村の川田に着いたのはもう日も暮れようとするころであった。

 公民館を訪ねていくと、そこには人びとが集まりかけていた。区長にあいさつを済ませていると、妙子さんも顔をみせた。彼女が集まりの手配もしていたのである。川田は初めての訪問だった。ここでも人びとの土地問題に対する関心は高く、公民館いっぱいに集まった人びとは真剣に話をきいてくれたし、処分問題についてのこちらの話にも、しきりに肯いてくれた。その夜は、食事とも妙子さんの姉さんの家でお世話になった。

 私は大宜味、国頭をまわることにしていた。妙子さんも一緒に行くという。森田氏も同行したいといい出したが、川田では妙子さんが手配していたからいいようなものの、この先はちゃんとしたスケジュール(宿泊場所等)ができているわけではない。山城君に後の世話を頼んで首里に帰ってもらうことにし、妙子さんと二人は平良でバスを降りた。彼女は家へ寄って支度をし、しばらく休んで次のバスで大宜味へ向った。

 大宜味では、帰郷中の学生(浜元君、彼は後に学生会長もやったか?ほか数人)に連絡をつけて人びとを集めてもらい懇談会をもった。大宜味は元気のいいところ、話は遅くまでもり上がった。その夜は安里悦子先生の家にお世話になった。

 翌9月1日は国頭の安田へ行くことになった。行先については、同行するという浜元、宮城君らと相談の結果だと思うが、去る5月5日、米下院外交委で沖縄北部の固有地1万2千ヘクタールを接収すると発表されていた。また去る30日、武装したマリン兵の部隊が山中で、無通告で演習をしていたという情報などもあってのことだったと思う。

 バスで与那まで行き、そこからは歩いていくしかない。「五里」というからおよそ20キロ。ちょうど与那〜安田間の横断道路の工事中であった。

 歩き出して間もなく雨が降り出してきた。雨具の用意はない。大降りになってきた。土手のくぼみや木の下で雨をさけようとしたが、効果はなく、いつしか全身ずぶぬれになってしまった。妙子さんもぬれた髪からしずくをたらしている。一緒に行きたいという彼女の意のままにしたのだが、大宜味から帰ってもらうのだった。気の毒なことをしたと思った。

 中間点を過ぎたあたりで雨は止んだが、工事中の道はぬかるんでいる。木かげで用意してもらったおにぎりを食べながらしばらく休み、ぬかるみに足をとられながら先を急ぐ。

 安田へ着いたのは夕方、5時を過ぎていた。着衣はすっかり乾いている。区長を訪ねて来意を告げると、快よく承知してくれた。まだ明るい。すこしからだがだるい感じがしたが、部落のはずれを流れる川で、子どもらと一緒に水浴、からだのよごれを落す。公民館へもどると夕食の準備をしてくれていた。頭がすこしくらくらする。カゼをひいたようだった。

 夜には公民館いっぱいに集まった人びとで懇談はもり上がった。やはり固有林の接収問題は関心が高く、どう村人の生活に影響してくるのか形はみえないけれども、不安をなげかけていた。処分問題についてもよくその内容を理解してくれて、励ましのことばももらった。

 この夜は、男3人は公民館に、妙子さんは民家に泊めてもらった。熱が上っているらしい私の様子に、浜元君らは気づかったが、大丈夫だと、毛布にくるまった。悪寒がしてなかなか寝つかれなかったが、昼間のつかれもあってか、いつしかぐっすり寝入っていた。

 翌朝、まだ熱っぽくふらつく感があったが平気をよそおった。婦人会のみなさんが朝食の準備をしてくれている。妙子さんもカゼをひいてはいないかと気になっていたが、元気な顔をみせてくれた。区長さんも早々とやってきた。

 朝食を済ませ、お礼をのべてひき上げることにしていると、折よく共同売店の小型トラックが、店の用事で辺土名まで行くという。それに便乗させてもらうことにした。工事中の道を荷台の上で楽ではなかったが、帰路も歩くことを覚悟していたのに、大いに助かった。三人とは大宜味で分れ、私はバスを名護でのりかえ那覇に向った。

 この3日間、やんばるの部落をまわって、どこでも突然の訪問を快く受け入れ、真剣に話をきいてくれた。土地問題への意気は変らないし、処分問題についてもその理不尽さを共感してくれた。心から問題の行末を心配している。この人々を中央の指導部はどこへ導こうとしているのだろう。
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