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私記:父の記録

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 13日 午前、中部の市町村長らはムーア副長官に会い「軍用地問題は純粋な立場で推進、今後絶対に行き過ぎは阻止する。中部は旧盆を控え経済的に大きく響いている」と訴え、オフリミッツの解禁を要請している。その中で副長官は、「瀬長、兼次らが沖縄代表という状態にあり、あなた方はそうでないといっても、彼らの思うつぼにはまっている」とのべ、「証拠をみるまでは納得できない。新聞もまた一方的な書きぶりがある。」と注文をつけている。一方、「今度のコザのとった態度はかつてない画期的なもので、私としては特別な措置をとるよう考慮を払う」と、声明を出したコザを褒めあげ、オフリミッツの解禁をにおわせている。

 つい先日、バージャー主席民政官に「オフリミッツ責任の三者」の一人として、きびしいお叱りを受けたコザ市長であったが、そのお灸が効いたのか例の声明となって、副長官からはお褒めのことばをもらうことになった。

 「三者」の一つとされていた「新聞」についても「新聞もまた一方的な書きぶり」とそのわけについてふれている。

 コザの動きはこのあと中部一帯に連鎖反応を起すことになる。


 同13日、琉大では朝10時すぎから図書館会議室で臨時理事会が開かれ、先に決定した学生の謹慎処分問題に対する民政府側の強硬態度をめぐって論議がかわされているが、結論を得るに至らず、午後6時頃散会、ひき続き14日朝から、稲嶺紀仁氏(宮古)、山城興常氏(八重山)の両理事を加えて再開することになった。この日の論議の内容については明らかにされていない。学生会では評議員会との話合いを予定していたが、理事会の審議に進展がない等の理由があったと思うが行われていない。

 この日琉大同窓会でも和気会長ほか役員が大学を訪れ、事情をきくとともに「将来においても琉大の歴史を左右する重大な問題であるし、大学の自主に関連して当局ならびに理事会の誠意に立脚した正しい判断を希望する。」と要望、同窓会としてもこのよりよい解決に努力する意向を伝えた。
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