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私記:父の記録

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 14日。先島の代表を加えて開かれた理事会は、この日も結論を得ず翌日に持越された。

 会議はこれまで、部外者を閉め出しての秘密会議であったが、伝えられる情報によると、理事会として結論に至らず再三審議を持越してきたことは、民政府側が「退学もしくは1年以上の停学」という厳しい処分を要求しているため、理事会としては前に決定した謹慎処分の線で妥協点を見出そうと苦慮しているということであった。

 評議員会等、学内の雰囲気としては、その行為を通してみても学生側に謹慎以上の犠牲者を出すことは考えられない、という意向であった。

 学生側としては、何ともいらだたしい気分である。特別委員を中心に対策を練ったり、各学部の教授に個別に接触し、学生の立場を理解してもらう等のことはしていたが、まとまった行動はとれないでいた。何としても口惜しいことは夏休み中で学生が学内に不在だということであった。(あるいはこの時期をチャンスとみていたのかもしれない。)

 通常であれば、たとえ集会禁止命が出ていたとしても、学生は自然に中庭を埋めていたであろう。講義ボイコット等の意志表示の手段もある。こうした行動、戦術提起が不能で待機している中、あの時のことを思い出した。

 2年前(1954年)、立法院で「防共法」を制定しようとしたときのことである。

 若手教官グループはいち早く反対声明を出していたが、学生会でも反対声明を行うとともに、連続して開いた総会は夜間に及び、学寮の食堂に移動して続行され、もし立法で強行されるのであれば、全学生退学届を出そうというところまで論議が発展した。主謀者として一部の犠牲者を出すことなしにこの行動を成功させるにはどのような方法があるか、まじめに論議したものである。結局この法案は不発に終わった。

 今回は自分たち自身に直接ふりかかってきた問題である。おそらく学生たちは、個々に散在していて連帯の行動が組めないことにいらだたしい気持を抱いていたであろう。

 臨時総会開催についても幾度か検討された。実際にその手続きをとるとなるといくつか難関があった。学生へのよびかけは新聞等によるしかない。集会参加の禁止令が出ている中、大学当局が通常通り総会開催を許可するはずはなし、それをおしてとなるとさまざまな問題があって論議は前に進まなかった。

 理事会が結論を出せないでいるのは、内部に両論があるということであろう。一度決定した「謹慎」以上の処分は考えられない、という主張と、民政府の指示には逆らえない、これを無視したらどうなるか。こんなことをくりかえしていたのではないか。

 理事は全員学外の人で構成されている。謹慎処分の決定が民政官に一蹴されて以後の会議には学長、副学長、事務局長も参加していたが、学生を処分するには学長の同意が必要であったからで、正式なメンバーではない。

 大学側としては前述のように、基本的に処分は反対(謹慎はやむを得ないと妥協したが)で、民政府の要求には応じられないという意向であったから、問題は学外者である理事がどう動くか、ここがカギになりそうな気がした。学生会は再三面談を申入れていたが実現していなかった。

 民政府側からは15日午後5時までに結論を報告するよう迫ってきている、ということであった。


 琉大の学生処分問題は、本土の学生間でも関心をよんでいた。

 全学連は14日、星宮副委員長ほか代表が文部省大学学術局長に会い、琉大財団のとった財政援助打切りと琉大当局の学生処分について、学生の自治活動、学問の自由を阻害するものとして何らかの態度を表明してほしい。琉大の学友に対しては、日本の学生と同様に財政的な援助を日本政府としてやってほしい。との要望書を手渡している。

 私学連では、同日文部省および関係当局へ財政援助打切りと学生処分の撤回を求め、要旨次のような請願書を送っていた。

 「沖縄の実情はプライス勧告を契機に、人間本来の基本的な要求を掲げて立ち上がったものであり、若人の正義感は当然住民のためを思ったことは疑いの余地がない。米国が真に琉大のゆくすえと沖縄住民の今後の発展を願うなら、今回の措置の撤回をなすべきであると考える。よって本連盟は、この措置の撤回のために多くの学生と共に行動を行うであろう。」

 一方、この日コザのオフリミッツが解禁された。

 軍司令部の発表。
 「コザ市に限るオフ・リミッツは、8月14日午前7時に解禁される。オフ・リミッツ措置におかれた中部の他の地区は同じ状態のまま置かれる。コザ市のオフ・リミッツ解禁は、扇動的言辞及び行動をひき起すかもしれない大衆的なデモを防止する態度に出たコザ商人たちの努力によるものであろう。またコザ市長のかかる問題における市長としての反省とこれに関する公衆への言明の結果であり、コザ市にオフ・リミッツを設定する原因が当分の間なくなったように思われる。」

 とり残された他の市町村は慌て出した。石川市が「瀬長、兼次の両氏は石川市民の代表として認めない」という声明と、「当市において反米的な演説会および住民大会に対して当市教育委員会としては校舎および校庭の使用を許可しない。」ということを宣言。具志川、嘉手納と相ついで同様な声明を出すに至った。

 意にそわないことに対しては経済的な弱点をついては制裁を加えて叱りつけ、ムリに頭を下げさせて恩恵がましく制裁を解く。コザに見本をつくらせて、ほかもこれにならえと尻をたたく。支配者のねらいは見事に効果を現わしていた。

 米軍の打ち込んだクサビのせいか。中部一帯の混乱の波及か。土地闘争の住民組織のあり方についても論議が起っていた。

 民主党は「単一目標の確保」(四原則にしぼるということ)、「不純便乗の排除」といった基本的態度を決め、その運動をすすめる土地を守る組織についても一本化をはかるべきだということで、「土地を守る協議会」の解散を主張していた。住民の思いをよそに土地闘争の基盤はかなりゆらいでいたのである。
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