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私記:父の記録

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 やんばる(屋我地)の家に帰ったのは7月の下旬であった。兄が近くにいた(琉銀に勤めていた)ので、連絡はとり合っていて、家の方にも心配することはない旨伝えていたのだが、一度帰ってゆっくり事情を説明しておかなければと思いながらも、首里の場を離れるわけにもいかず、時が経ってしまった。

 屋我地は離島で、かつては渡し舟で島に渡っていた。1953年私が琉大に入学した年に橋が架けられた。がその橋は1960年のチリ津波で破壊され、次の橋も架けかえられて、現在の橋は三代目である。

 54年の夏、文芸部の諸君(松原、川満、岡本、松島、喜舎場)が、愛楽園で文芸活動を行っているみなさんとの交流をもった際、わが家に泊ったことがある。翌年の夏、新川明さんと沖縄タイムスの比嘉律夫さんが訪ねてきて泊っていった。

 その頃はまだ湧川と前垣(わが家のある部落)の間は渡し舟もやっていた。名護発のバスの回数が少ないのと、自家用車のほとんどない時代であったから、大廻りで橋を渡るよりも今帰仁行きのバスで湧川から渡し舟で渡ることが多かった。その時も渡し舟を使った。

 舟頭のおじさんは近所の知り合いである。事件のことは大きなニュースであったからむろん知っている。方言で、「チバトーサヤー。だがお父さんにはあまり心配かけるなよ」といってくれた。「大丈夫だよ」と答えながらこの頃の乗客のことなどをきいたりした。橋ができてから利用者は減り、メシの食える仕事ではなくなったようである。なくなったら困るという人もいるから続けているのだという。(後のこと、チリ津波で橋が破壊され、二代目の橋ができるまでの間、また渡し舟が復活した。)

 帰省は7月の県民大会へむけたポスターはりのとき以来だった。さわぎの中を抜け出して久しぶりにわが家で足を投げ出しているとほっとした気分になる。

 普段から口数の少ない父は、大学から送られてきていた処分通知を黙ってさし出した。自分の処分内容を実際に文書でみたのはこの時がはじめてだった。

 父は「むつかしい問題のようだが、お前も大学生だからことの判断はできているだろう」と多くを語らない。いろいろと話しておかなければと思っていたのだが、事情はおおかたのみこめているようであった。私もとやかく弁解がましくなるのがいやで、特段の説明はしなかった。

 父はその頃屋我地村の助役をしていた。村長は保守的ではあったが気さくな人であった。学生たちの動きについても当初は「若い者たちががんばらなければ」と好意的であったようだが、運動体内部においてもこの間のできごとについていろいろな意見がでているいま、「困ったものだ」と、父との折合いもうまくいかなくなっているようである。(父が革新的ということではなく、私の事件をはさんでのことである。)村長はどうなのか、きいてみたが「心配することはない」と、それだけだった。

 どこの離島でもそうであるように、本島とつながりたい願望は強いものがある。屋我地はわりと早い時期に架橋が実現しているが、それには松岡政保の力が大きくはたらいていたという。松岡氏は民政府時代、工務部長として復興資金等、米軍をバックに建設面の実権を握り「大典寺民政府」(そこに工務部があった)といわれるほど絶大な影響力をもっていた。そうした関係もあって、役所は保守的な空気が強かった。

 先の市町村長・議長会の合同総会で議決に失敗した例の「瀬長・兼次は代表ではない」という件が、8月28日に再開された合同会議に再提案され、反対者が退場する中、玉城屋我地村長の動議で採決されている。 “気にすることはない”といっていたが、しばらくして父は助役を辞めている。
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