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私記:父の記録

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 8月26日、文理学部の教授会が開かれたが、再び結論を得ないまま散会した。

 当初、同教授会では処分を不当とする意見が強く、その撤回を要求する請願文を提出する動きもみられたが、大学当局の申入れで取止めとなっていた。この日は新たに請願文の提出をめぐって協議されたようであるが、意見の一致がみられなかったというもの。

 しかし伝えられるところでは、検討されている請願文の内容は、処分撤回を要求する強いものではなく、いわゆる減刑嘆願書といったものであるといわれ、妥協点を求めて動きつつあることがうかがわれた。

 また、処分を不当としている学生の動きに対しては、同教授会も警戒の色をみせ、近く処分学生を各補導教官が個別的に訪問して自重を促し、説得に当ることも話合われたようである。

 同教授会は9月3日10時から三度その態度を協議することになっていた。


 この頃、土地闘争をすすめていく上での組織のあり方についての論議が続いていた。

 政党や民間団体で構成する「土地を守る協議会」(土地協)と、市町村ごとに結成され市町村長会が主導している「土地を守る会」の関係をどう整理するか、つまり住民組織の一本化ということをめぐって内部で見解が分れていた。

 民主党は、土地協は解散し「土地を守る会」一つにすべきであると主張し、土地協の大勢としては、これから重要な段階をむかえて運動体の強化をはかる上からも一般団体による組織は必要であり、土地協は解散せずそのまま「土地を守る会」の中に加わる、という意見であった。そして市町村長会、同議長会と土地協の三者会議で細部の検討がすすめられていた。

 また、オフリミッツは解禁されていたが、その解禁要請の過程で、中部の市村では米軍の要求に応じて「瀬長、兼次の両氏は当該市村の代表とは認めない。校舎、校地の使用は許可しない。」という声明が相次いだ。これについて土地協では、「7月28日、那覇高校における四原則貫徹県民大会は20万人近くの県民が参加してもたれたことは事実である。この大会において兼次、瀬長の両氏が満場一致で県民代表に決定したことも事実である。」と、これは否定しがたい事実として県民代表に相違ないことを表明していた。

 なお問題は続いていて、市町村長会、同議長会の合同総会においても「瀬長亀次郎、兼次佐一の両氏は、われわれ市町村長会、同議長会が選出したものではない。」との声明を出すということが提案され、はげしい論議がかわされた。この声明を提案してきたことについて吉元、伊礼両会長によると、その筋(米軍筋であることははっきりしているのだが)から要求されやむを得ずこれを提案したということであった。同時に校舎・校地の使用に対する制限についても両会長から提案されたが、これは改正布令問題で立法院でもその撤回要求を決議したこととも内容的に関連していて、多くの会員から反撥を受けたことはいうまでもない。

 結局この日は採決に至らず、保留となったが、その筋の指示を受けてか琉球政府では、この会議で反対意見をのべた市町村長や議長の動きをマークしていたもようである。

 四原則貫徹は至上課題としながら、思わくがはたらきはじめたか、組織問題、運動のすすめ方等に波及し、不協和音が出はじめていた。

 その発端となったのがオフリミッツであり、琉大の学生処分問題であった。米軍の打ちこんだクサビが効果をあらわしてきたということか。そうした中で処分問題については、支援の声は高まりつつも、具体的な進展はみられなかった。
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