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私記:父の記録

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 理事会の処分声明をみると、当初の謹慎処分の決定に対してこれを一蹴したとき、バージャー主席民政官が指摘し注文をつけたことが、声明の内容にとりこまれている。民政官の、コザ市民に侘びていないとのお叱りに対しては「中部地区住民に対して不安と苦痛を与えたことに対し深く責任を感ずる」とこれをとり入れ、オフリミッツの責任まで学生に負わせることを認める形になっている。そして「廃校か処分か何れかを選択せよ」と迫られ、結局「処分」をとるということになったわけである。

 処分の理由であるが、声明書では「氏名及び行為」は公表されず、学長室によばれた時も、理由とされる個々の具体的行為は知らされなかった。処分の通知書はそれぞれの保護者あて郵送されていた。およそのことは推測できたが、その文書に接したのは屋我地の家に帰った時だから数日後のことである。

(その文書はいま手元にはない。本土に渡ったとき、私学連においてきた資料の中に入っていたと思う。)

 正確ではないかもしれないが、記憶しているとこでは私の場合、デモの際「第1行動隊の隊長として、隊員が反米的な言辞を弄することを阻止しなかった。右の行為は学生の本分にもとり、本学の存在を危うくし……」と、デモの責任を問うものであった。(「行動隊」とか「隊長」等は当局が勝手につけた呼び名である。)

 古我知会長は学生会全体の、喜舎場君はデモの「総指揮者」としての責任。神田、与那覇の両君は「第2・第3の隊長として」、多分私と似たような理由があげられていたと思う。(与那覇君は中部での集会でも代表あいさつをしている。)以上の5人はいわゆる「反米デモ」の責任者ということになろう。

 「謹慎」の具志和子は学生会の責任ある立場にはなかった。唯一それらしいことは、本土派遣代表に選ばれ、中部での集会で決意表明をしたことである。

 処分声明の中では「その責任者と反米的言辞をろうした学生」とある。その後者の「反米的言辞……」に該当ということであろうか。

 ともかく以上は学生会としてのとりくみの中での行為が問題にされている。

 残る一人の豊川君はこの系列からはずれている。彼は学生会の役員・特別委員でもなく、運動の指導的立場にはなかった。彼の名前をきかされたとき、誰もが以外に思ったに違いない。で、彼の処分の理由は「反米的言辞…」というワクにくくられることになろうが、学生会の活動とは直接関係のないところに求められていた。

 彼は8月1日から4回にわたっておき縄タイムス紙上に「学習活動と土地問題―ぼくたちは無関係であるべきなのか―」と題する論文をのせた。それは土地問題に関して学生の立場から意見をのべたもので、いうまでもなく米軍の施政にもふれているが、きわだって過激な内容というものでもない。(土地闘争の至上命題であるプライス勧告反対、四原則貫徹というスローガン自体米軍政を痛烈に批判するものである)ことさらこれがとりあげられ、処分の理由として「反米的な論文を新聞に掲載した」ということであったようである。

 学生処分そのものが不当であるから理由や該当者を選別するつもりはないが、その処分リストには何か背後に意図するものがあったように感ずる。

 最初の理事会での「数名の学生を謹慎処分にする」という決定の際、人数、氏名は明らかにされていなかった。その対象者は学内の機関である評議会で検討するということになっていたようである。それが民政官によって一蹴され、理事会にもちかえっての一週間、どのような論識を経ての結論かは不明だが、最終的な処分リストまで決めている。その基準というか、判断の基礎をどこにおいたのか。 民政官に恫喝され、大学存立と天秤にかけて処分やむなしというのであれば、該当者選びは機械的でいいのではないかと思う。古我知、喜舎場、嶺井、神田、与那覇は、行動の一環としてストレートに浮かび上ってくる。この中では神田君について、デモの各隊の責任者を選ぶ際、冗談まじりに「からだも声も大きいからお前がやれ」ということで選ばれたいきさつがあった。彼はさほど目立った活動家でもなかったことなどから同情の声がきかれた。けれども彼の場合は、形式的には嶺井、与那覇と同様な条件にあったといえる。(いうまでもないことだが、この諸君の処分は妥当だという意味ではない。念のため)

 ここで学生会の活動とは全く関係のない豊川善一の名前をあげてきたのは念が入りすぎている。はたして理事全員が彼の論文を読み内容を吟味して、その上での結論なのだろうか。どうも理事会が、自らの判断で学生会の活動とは関係のない豊川をリストアップしたものとは考えられない。だとすれば、おそらくこれは民政官の指名によるものであろう。

 喜舎場君が中央委員に出て、私が文芸部長ということになり、琉大文学の編集責任者には、第10号から嶺井と河西門太(豊川)が名を連ねることになった。前に述べたように、56年3月に発行した第二巻第1号の内容に関して米軍からクレームがつき、誓約書では納まらず、56年度の前期(10月まで)の間発刊停止という処分を受けていたが、この機に文芸部にねらいをつけ、追いうちをかけてきたということになる。

 喜舎場、嶺井はデモの直接の責任を問う。もう一人の編集責任者である豊川についても「反米的な言辞」という口実をみつけ、具志和子も含めて対象にあげてきたものであろう。

 理事会は、大学をつぶしてもかまわないというバージャー主席民政官の強硬姿勢の前に屈し、大学の存立という建前で処分にふみきり、つきつけられた指名リストも結局そのまま認めることになったものであろう。

 処分は認めざるを得ないかわりに、処分の対象となった学生の面倒はみようではないか、ということが理事会の最終的な妥協点ではなかったかと思われる。安里学長も「処分学生については責任をもつ」といった。処分を強行し事後処理については責任をもつという、何とも矛盾したはなしである。これが琉大のおかれている現実の姿であったのだろう。

 この一連のできごとについて、後に「ヤンキーゴーホーム事件」とよばれたりしているが、ただ単に「ヤンキーゴーホーム」と叫んだことに米軍が怒ったというだけでなく、大学の自治、学問の自由といったことにとどまらず、人間が人間として生きる権利の基礎を圧殺する米軍の力づくの支配の実態をあらわすものであった。

 理事会とバージャー民政官との会見の際、バージャー民政官は、「本官が赴任する以前から琉大内部には反米的動きがあり、本官は以前からこれを摘みとろうと考えていた」と答え、今回の問題の本質を説明したといわれる。バージャー民政官としては、デモ行進の「行き過ぎ」を一つの契機として、琉大内の「反米的空気の一掃」をねらったもので、このことはまた、この間の民政官の発言の随所にあらわれてもいる。
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