まさみ編



 繁華街を足早に通り過ぎる青年がひとり。 冷え切った両手をロングコートのポケットに突っ込んで、白い息を吐き出し、 青年は家路へと急いでいた。
 声をかけてくるキャッチの間をすり抜け、時折ポケットから腕を出しては、 ダイバーウォッチで時間を確認する。それは帰宅を急いでいるのだという彼なりのポーズだった。
 深夜だというのに通行人の姿は途切れることを知らない。 夜の街を彩るネオンと同じく華やかな衣装に身を包んだ女たちが、帰宅途中の男たちを誘い、家路へと向かう男たちを送り出す。
 近寄る女たちをなんとかかわし、酒の香りが濃厚に漂う彼らの脇を通り抜け、 童顔の青年は通り一本入った路地へと入っていった。
 遠ざかる光と音の洪水。ゆっくりと訪れる静寂を肌で感じ、青年はようやく歩調を緩めた。
 毎度のことながら気が抜けない。 強引な客引きに何度となく身体を持っていかれそうになりながら、 どうにか堪えた彼の外見はかなり乱れていた。
 通り抜ける間に煌びやかに着飾ったお姉さま方に乱された、栗色の柔らかな髪を手ぐしで直し、 次に歪んだネクタイを戻す。 同じく乱れた襟を正し、背広の内ポケットに潜めてある財布の存在を確認し、最後に息をついた。
 通るたびに激しくなっているような気がするなぁ……。
 両耳を垂れ、途方に暮れている子犬のような表情を浮かべ、青年刑事はため息をつく。
 彼の外見はけしてなよなよしているわけではない。どちらかといえば男らしい外見である。 が、あまり男臭く感じさせるタイプではなかった。
 未だ幼さの残る少年のような容貌と、浮かべる頼りなげな表情。 どことなく可愛らしい印象を与える彼の姿は、 どうやら手練手管に長けた夜の蝶である彼女たちの心をくすぐるらしかった。 また、まさみは彼女たちのしつこいアプローチに怒るのではなく、 ただ困った顔をするだけで乱暴をはたらくこともないため、からかいやすいということもあり、 この界隈の女性たちの行為はエスカレートしていた。
 刑事という職業柄か帰宅時間がまちまちなため、 店が開いている時間に彼がココを通ることはそれほど多くない。 が、まさみの職業を知らない女たちは、彼をからかう機会の訪れを日々楽しみにしており、 青年が通る瞬間を今か今かと待ちわびているのだ。
 まさみは彼自身の知らぬ間に、自分がここで働く女たちのアイドルになっているこの事実を知らず、 またそんなこととは夢にも思っていなかった。
 白い息が消える先、行き交う人々にしばし目をあて、もう一度息を吐き出すと、 まさみは再び足を動かした。
 闇に沈んだ我が家へ大股で向かう。
 切れかかった街灯がちかちかと瞬く、車一台分の道を歩く。 微かに届く青白い光の中、築30年のおんぼろアパートがぼんやりとその輪郭を現す。
 間近に迫る我が家を目指し、歩調をあげたまさみの足が、蔦の絡まるアパートの手前で突如止まった。
 アパートを数メートル通り過ぎた先に見慣れない自動車が正面をこちらに向けて止まっている。 闇に溶けるようにひっそりと停まっている車の、車内まではみることができない。 アパートの外灯でかろうじて判ったのは、光に反射する王冠のマークとナンバーだけだった。
 アパートの住人には不釣合いな高級車。
 誰のだろう? と不審に思いながらも、斜めにみるだけで近づいて調べることはせず、 まさみは蔦の絡まる2階建てのアパートとの距離を縮めた。
 ここ数年で錆がひどくなった階段を慎重にのぼる。 時間帯を考慮し、控えめにたてた靴音が、小さく辺りに響き渡った。
 と、2階の部屋まであと少し、というところで、再びまさみは歩みを止めた。
 建物の一番端が彼の住む部屋なのだが、そのドアの手前で影が動いた気がしたのだ。
 まさみは暗闇にじっと目を凝らす。息を潜める彼の視線の先。確かに月明かりに動く人影がみえた。 それはやはりまさみの部屋の前で。
 新聞受けを覗き込むような影の仕草に、強盗という言葉がちらりと頭を掠めた。
 いや、こんなぼろアパートに狙いをつける泥棒などいるだろうか?
 一度浮かんだ考えを否定し、別の考えを巡らせてみる。
 今のところ身に覚えはないが、自分に恨みを持つ人間からの報復行為の途中?
 自分自身に覚えはなくとも、この職業なら十分ありえた。 どちらにしても相手は凶器を持っているかもしれない。
 まさかストーカーということはないだろう……。
 ちらりとよぎった可能性。が、すぐにありえないと首を振る。
 薄闇の中、思いついたことを恥じるような失笑が浮かぶ。
 彼が考えを巡らしている間にも、相手はこちらに気づいていないようだった。
 緊張を高めたまさみは、息を殺し、足音をしのばせ、階段を上りきると、 光を避けるように身をかがめた。
 と、強盗は再び新聞受けの小さな扉に手をかけた。 手前に見える手がゆっくりと箱状のものを新聞受けに差し込もうとした。
 爆弾?!
 閃くと同時に身体は陰から飛び出していた。今にも不審物を室内に投げ込もうとした腕に掴みかかる。
 ふいをつかれた形となった相手は、逃げることも反撃することもできないまま、 あっけなくまさみに取り押さえられた。
 思っていたより細い腕。
 まるで女性の腕……。
 戸惑いはしたものの、まさみは取った腕を人影の背に回すと、 逃げられないように上から体重をかける。
「うぁっわ」
 完全に無防備だった人影は、突如死角から現れた人物に目を見開いた。
「え? あ? ……結城??……」
「ばか、まさみちゃん。シッ」
 一瞬月明かりに照らされた横顔は、見知った人物のもの。
 夜を突き破る素っ頓狂な声をあげた青年に、羽交い絞めにされながら、 年下の少女がすかさず制止をかける。
「……あ、すまない」
「いいから。はやくどいて」
 まさみの声は数秒空間を震わせたが、遠くで聞こえる嬌声や怒号に飲み込まれ、 辺りを騒がせるには至らなかった。
 近所の住人を起こさなかったことにほっと胸をなでおろしながら、 まさみは慌てて少女に預けていた体重を引き取った。
「……どうして君がここにいるんだ?」
 何時だと思っているんだ?
 すでに日付は越えている。未成年が外にいていい時間ではなかった。
 深夜という時間帯を考えてひそひそ声とはなったが、つい説教口調になる。
 が、そんなまさみの台詞を、朱蘭は痛みに顔をしかめながらもはいはいはい、と軽く受け流した。 右から左に素通りさせる。
「……まさみちゃん、おやじくさい」
 まるっきり悪いと思っていない様子である。
「結城、あのな。君……」
「説教はいいから! とにかく、コレ受け取って」
 これは厳しく言ってやらなければ、と顔を引き締めた童顔青年の視界を、何か黒いものが遮った。
 視界が暗くなった、と同時にぶつけられた鼻の頭。
 差し出された(ぶつけられた)ものの正体は、まさみの不意打ちによって、 ふたりの間に転がった箱状の、彼がいうところの不審物だった。
「……これは?」
 鉄錆びの匂いが濃厚な廊下に向かい合い座っている相手を見つめ、 したたかに打ちつけられた鼻の頭をさすりつつ、まさみは問いかける。
「遅れたけどさ……バレンタイン」
 いつも迷惑かけているからその詫と礼に、な。
「日付が変わっちまって2日前になっちまったけどさ」
 月明かりに浮かび上がる少女の顔が照れくさそうに笑った。
「え? わざわざ?」
「……ああ、うん。だって世話かけてるし……」
 まあな、と鼻の頭をかく仕種が、悪ガキをほうふつとさせて、 まさみは思わず彼女の小さな頭に手を伸ばした。 そのまま絹のように細い髪をわしゃわしゃとかき乱してやる。
「おま……まさみちゃん、何すんだよ」
 怒る少女の年相応な表情に、ますます気持ちが和んだ。
 感謝の気持ちを示すことのできる少女。
 やっぱり素直な、いい子なんだよなぁ。
 口に出しては言えない言葉を胸の内に落として、まさみは微笑んだ。
「ありがとう」
 素直に礼を述べて頭を下げると、少女は焦ったように彼を制した。
「そんなに畏まられることじゃないんだって」
 弓なりの眉の先を下げ、困ったような表情を浮かべている朱蘭は、 「それに……」と不安げに言葉を濁す。
「また迷惑をかけるはずだからってことかい?」
 先を読んで返したまさみの台詞に、虚を突かれたようで、一瞬間を置くと少女は否定した。
「違う。あのな……」
 言いよどむ声には力がない。
 ほんの数秒、長い髪の向こうに顔を隠す。 一瞬の沈黙後、顔を上げ、朱蘭は意を決して青年刑事に爆弾を投げてよこした。
「それな。おれの手作りなんだ」
 だからうまいかどうか、保証が……。
 反応を伺うようにこちらを上目遣いに見つめてくる1対の宝石を前に、まさみの動きが止まった。
 相手に悪いと思いながらも、箱を掴んでいた手が固まる。思考が停止する。
  ……なんて?……。
 結城朱蘭と手作りチョコ。まったく結びつかないふたつの単語に、どうしてよいかわからない。
 料理器具を手に菓子作りに奮闘する少女の姿を思い浮かべることはどうしてもできなかった。 代わりに浮かんだ映像は料理器具が武器となって格闘に用いられている場面ばかり。
 失礼だとは思うのだが、日々の彼女が彼女だけに、渡された物もすごく危険なもののような気がした。
 食べる前に一度科捜研に……などと職権乱用的なことをちらりと考え、 そしてまさみはそのことをとても後悔することになる。
 やっぱり、と気落ちした少女の顔を見た瞬間、罪悪感に駆られた。
「あんたも同じ反応示すんだな」
 しょうがないか。普段が普段だからな。
 浮かべる苦笑も力がなく、無理に作ったものだとわかる。
 いつもなら拳が飛んできてもよさそうなまさみの反応にも、 諦めたように肩をすくめただけで少女は何もしてこなかった。
「……あ、結城。すまん」
「……別にいいって。」
 慣れないことはするもんじゃないって今回のことで身に沁みて判ったからさ。
 今度は逆にしゅんとなったまさみの頭をぽんぽんと叩いて、少女は首を横に振った。
「とりあえず、コレもやる」
 はいっと掌に落とされたものは茶色の小瓶と細長い包状の薬。
 しっかりと薬を握らされた右手の甲に感じたのは氷のように冷たい体温。
「何時からいたんだ?」
「別に心配するほどじゃないよ。まさみちゃんが来るちょっと前くらいかな」
 うーんと、と軽く眉根を寄せ答えつつ、朱蘭は立ち上がる。タイミングよく響く震動音。
「おっと。時間だ。下で神沼が待ってんだ」
 じゃあな。
 ポケットから取り出した携帯電話を確認し、少女はまさみの脇をするりと抜ける。
「あんたの忠告どおり、こんな時間に出歩かないことにするよ」
 強盗に間違われるのもいやだしな。
 振り向きざまに軽く舌を出し笑んだ少女は、足音をたてずに階段を降りていく。
「あ、結城」
 我に返って背中を追いかけたまさみの目は、アパート脇に停まっていた高級車を捉えた。 ライトを点けた車に小柄な背中が吸い込まれ、車は音もなく走り去る。
 呆然と見送りながら、神崎まさみは渡された贈り物をただ握り締めていた。
 淡い月光に染まった温かな贈り物を。







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