由暁編



 片手にすっぽりと収まる大きさの箱は、 ワインレッドの包装紙で綺麗にラッピングがなされていた。
 有無を言わせず掌に押し付けられた物体を、由暁は端正な顔を歪め、見下ろしている。
 丸一日運転手まがいのことをやらされ、挙句の果てに何を押し付けようというのか。
「……これはなんだ?」
 体温を感じさせない冷ややかな声と目が少女を睨み付ける。
 とっととお荷物を投げ捨て、疲れた身体を休めたいというのが彼の本音だった。 汗ばむほど暖房の効いた部屋で一刻も早く眠りたかったのだが……。
 重たげに広がる灰色の雲。吐く息は白く、風は肌を切り裂くかと思うほどに冷たく鋭い。
 お荷物たる少女は、コートの襟を立て寒そうにしてはいるものの、立ち去る気配もなく、 かといって説明する様子もない。 雪交じりの風に長い髪をなびかせ、ただ落ち着きなく視線をあちこちにさ迷わせていた。
 帰宅を催促するように、シビックのエンジンが低く唸る。指先が冷え切り、痛みを訴えていた。
「……何の真似だと聞いている」
 外気温よりもさらに低い声が空気を振るわせる。
「いや、その、なんだ、いつも迷惑かけてるし……そのお詫びも兼ねてだな…… 早い話が、義理チョコだ……」
 お守り役の機嫌の悪さにようやく気づいたのか、主たる女性は口を開いた。 あさっての方向を向きながら、ぽりぽりと手袋越しに鼻の頭をかいている。
「……なんだと?」
 予想外の台詞だった。
 不測の事態に、青年の思考が停止する。
 由暁は無意識に、眉間にしわを寄せた。
 何か妙な言葉を、聞かなかったか?
 その瞬間、ぐっ〜〜っと妙な奇声を発し、朱蘭は大またで男に近づくと、 その鼻先にびしと人差し指を突きたてた。
「お、ま、え、に、義理、チョコを作ったんだよ!」
 わざわざ「おまえ」と「義理」の部分を強調する。 が、言葉は彼の頭上を通り過ぎたようだった。
 思考より先に言葉が口をついて出る。
「……誰が?」
 理解不能と顔に書く青年に、少女の眼差しが挑戦的なものへと変わる。 突き立てた人差し指を今度は自分自身に向け、胸を反らせる。
「おれが!」
 どうだ!と言わんばかりの態度だが、それさえも彼の目には入らない。
「……喰えるのか?」
 日頃の粗暴で大雑把な姿と、ある程度の正確さと繊細さが要求される料理という行為が結びつかない。
 どう考えてもありえない。
 氷点下の眼差しで掌の箱を見下ろし呟く声の後から、一瞬、獣の唸り声のようなものが続いた。
「……う”−……」
 目を吊り上げ、唇をきつく引き結びながら、耐えるように手をグーの形に握り締め、 少女は由暁をにらみつけていた。が、視線が結ばれることはない。
 ありえない行為。ありえない贈り物。
 銃口をまっすぐに向けられたような、身の危険さえ感じるような。
 体感気温がいっきに下がったような感覚に、無意識に身震いする。
 感情の映らない瞳は相変わらず、手元のひどく扱いに困る代物をみつめていた。
「……言うのは目に見えてたけどさ……」
 朱蘭の口角は下がり、重いため息が漏れる。 箱を凝視したまま動かない青年をにらみつけるのをやめ、諦めたように少女は肩を落とし、 言葉を吐き出した。
 宿る声に力はない。
 けれど、衝撃が多きすぎて未だ現実に戻れない青年には、 声に滲んだ少女の感情を汲み取ることができなかった。
「……喰えるのか?」
 情け容赦ない一言を繰り返す。
 対する少女は、色をなくした唇を引き結び、やがて投げやりに頷いた。
「そのつもりだけど……」
 まりあがちゃんと先生してくれたから、死ぬことはないと思うけど?
 心配ならコレ飲むか?
 言葉と同時に投げ出されたモノを反射的に片手で受け止め、 そこでようやく目の前の人物へ目を向けた。
 鮮やかな緋色のコートのポケットに両手を突っ込み、 ふてくされたように横に向いた顔。 細かな白い粒が肩に触れては、またたくまに服に染みていく。 寒そうに時折首を縮めているその目が赤い。 心なしか顔色も悪く、疲れているようにみえた。
「……徹夜か?」
 口をついて出た台詞は、本日初めて、相手を気遣うものだった。
 驚いたように視線を戻した少女の瞳は思った以上に充血している。
「ん……まぁな」
 硬く強張っていた表情がほぐれ、瞳は明りが灯ったような柔らかな光を宿す。
「こんな時しか面と向かって、詫びとか礼とか言えないし、な」
 張り切りすぎた……。
 すぐに溶ける雪のせいでぬかるんだ地面に文字を書きながら、少女が頷く。 照れ隠しのつもりか、つっけんどんな物言いをする。
 ようやく彼女の意図を悟り、由暁は口元を緩めた。触れる紙の感触がふいに温かく感じられた。
「……慣れないことを……」
「何を!」
 彼の浮かべた微苦笑は相手には見えない。
 かすかな呆れと驚きを込めたはずの発言は、別の意味にとられたらしい。 少女の大きな瞳が細められた。
 怒らせるつもりで言った訳ではないが、平坦なトーンが誤解を生んだ。が、かまわず男は続ける。
「……帰ってとっと寝ろ」
 これはもらってやるから。
 未だ彼の中での危険物指定がとれない物体を軽く振って、 由暁は彼女の背後にそびえる建物を顎で指し示す。
 急速に暗くなりつつある空が帰宅を促している。
「とっとと行け!」
 限界が近いせいで思考も落ちているらしい主人は、眉間に皴をよせた。
 吐き出すたびに濃くなる息の白さが、寒さを実感させる。
「もらってやるから」
 仕方なく言葉を繰り返すと、ようやく理解したらしい少女が破顔する。
「わかった……そうする」
 じゃあな、と軽く手を振り、躊躇する間もなく朱蘭は踵を返した。 慎重だが、それでも危なっかしい足取りで。
 今にもバランスを崩しそうな背中を眺めやり、由暁も低くうなり続ける愛車へと向かう。
 すっかり寒さで固まった指先でドアを開けようとした時、由暁は物騒な物体とは別の、 掌の中の硬い感触と重さに気づいた。
 視線を下ろした先にみえたものは、反射的に受け取ってしまった茶色の小瓶。口元に苦笑が広がる。
 一瞬悩んだ末に、由暁は背後を振り返った。
 実際に口にするときは特大の勇気と決断が必要になるだろうけれど……。
「おい! 忘れもんだ」
 ゆっくりと遠ざかっていく背中を呼び止める。
 怪訝な顔で振り返った少女に向け、掌の小瓶を加減をつけて投げ返してやった。
 風を切り、正確に相手の頭上すれすれに飛ばした物体を、こちらも反射的に受け取る。
「……いいのか?」
 受け取ったものを認め、少女は少し心配そうな表情を浮かべる。
「早く行け」
 どうでもいいことのようにシッシと相手を追い払い、由暁は車のドアを開ける。
 視界の隅に映る少女の表情がどこが嬉しげにみえたのは気のせいか。
 彼女の反応を確かめる前に、男は暖房の効いた車内へ乗り込んだ。
 バックミラー越しに建物に消えた主人の影を確認し、彼は車を走らせる。
 助手席にはワインレッドの贈り物を乗せて……。



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