鳴神(義仲)編



 ブラックミュージックの流れる薄暗い店内。まだ時間帯が早いためか、客の数は少なかった。
 ざっと見渡すだけで奥まで覗ける空間は、そう広くはない。 数えるほどのテーブルに、背丈の高いパイプ製の椅子が何脚かあるだけ。 全体的にセピアを感じさせる室内は、完全に外界とは切り離されていた。 四方に窓はなく、壁に囲まれている。 天井は高くもなく低くもなく、圧迫感を感じないていどの高さをもっていた。
 天井近くにはいくつものポスターが貼られてあった。 が、どれも知らないミュージシャンばかり。 かなり照明の落とした中では、それが年代ものなのかどうかまでは判別できないが、 たぶん古い時代の人なのだろうと思えた。
 まあどちらにしても朱蘭には関係のないことだったけれど。
 入り口の扉正面にカウンターがあり、「いらっしゃいませ」と軽い会釈とともにバーテンがお客を迎え入れる。 彼の後ろにはずらりと数え切れないほどの酒が並んでいた。
 カウンターには7席、ほどよい距離で等間隔に椅子が並べられている。その中央。 真っ直ぐ伸びた背中が、グラスを傾けていた。
 目当ての人物の姿を認め、視線をとめる。
 半端な長さの後ろ髪がうっとうしそうだと感想を洩らし、結城朱蘭は店内へと足を踏み入れた。
 人工の光を跳ね返す靴はがっしりとした男物。着用している服も男物。 黒のスーツに身を包んだ彼女は、自慢の黒髪を背中に流し、ゆっくりとした歩調で歩く。 違和感なく着こなす姿は、ぱっと見、性別の判断がつかない。 それでも動きに現れるほんの少しの柔らかさが、彼女が確かに女性であることを表していた。
 BGMにかき消される小さな靴音が、男の背後で止まる。
 男は気配を感じているだろうに振り向かない。 珍しく燻らせていたタバコの火を、気配が近づいたと同時に消したところをみると、 近づく人物の正体を知っていたのだろう。
「らしくないところにいるんだな」
 鳴神。
 ハスキーヴォイスが揶揄すると、男は口元だけの笑みを返し、隣に座るよう彼女を促した。
 再びもの珍しく辺りを見回し、朱蘭は促されるまま鳴神源也の隣に腰かける。
 こういう雰囲気の店、ショットバーなどはどちらかといえば由暁あたりが似合いそうだと零す。
 先代懐刀は小さな笑みを返しただけだった。
 もしかすると沙耶せんせの好みか。
 鳴神源也の、年下で内科医の恋人を思い浮かべる。が、どうもしっくりこない。 違うような気がして、別の女の趣味か? などと勝手な想像を巡らしてみる。
 勝手な推測が頭を駆け巡っている現総長を横目で見つめ、 それをとめるでもなく若頭代行はグラスの中身を空にする。
 心得ているのか、バーテンダーは無言で空のグラスを受け取ると、 再び同じものを彼の前へと差し出した。
 どうやら一度や二度の来店というわけではなさそうだ。
 無言で交わされるやりとりを目で追っていた朱蘭は、回答のない想像を脇に押しやり、 身を乗り出した。
「同じものを」
 サングラスが外れた瞳がカウンター越しの男を見上げる。
「シャーリーテンプルを」
 ちらりっと見慣れぬ客をみやり、次いで常連客たる彼に目を向けた男に首を振って、 若頭代行は注文の訂正をする。
「なんだ? そのシャーリーなんとかって」
「ノンアルコールカクテルですよ。貴女にはまだこれは強すぎます」
「ウイスキーですよ」
 子ども扱いだと抗議しようした男装の少女の眼前に、 タイミングよく琥珀色の液体の入ったタンブラーが置かれた。
 てっきりファミレスにあるようなグラスにオレンジジュースが入ってくるのかと思っていた朱蘭は、 目の前に置かれたものにとたんに笑みを浮かべる。
 ロングサイズのグラスに入ったソレは言われなければノンアルコールにはみえないものだったからだ。
 我ながら単純だと思いつつ、琥珀色の液体を口に付ける。
 口内で弾ける炭酸が舌をしびれさせるが、味はまあまあ。 文句をつけられるものではなく、大人しく差し出されたものを飲むことにした。
 増えつつある客層はやはり若者で占められていた。
 飲み物を口に運びながら、横目でみやり、やっぱり浮いているな、と朱蘭はひとりごちる。
 それを聞いているのかいないのか、鳴神源也はあいまいな笑みを口元に浮かべたまま。 今日は珍しく閉ざしている。
 口元だけに宿る表情をみてとり、朱蘭は相手の心を探ることを早々に諦めた。 男を捜していた用件をさっさと片付けることにする。
 男のグラスの脇に小さな包みをそっと滑らせる。
「……何です?」
 微かに首を傾げ、こちらに視線を向けた鳴神に、朱蘭は「過ぎたんだけどさ」と小さく答えた。
 バーデンダーが興味のない瞳でちらりっとワインレッドの包みをみやり、自分の仕事へと戻っていく。
 他にも見られている気がして、朱蘭は鳴神に早く包みをしまうように目で合図した。
「過ぎた、とは?」
 低く平坦な声が意地悪く問いかけてくる。
「バレンタイン。……おれが……作ったんだ」
 断っておくけど、義理だからな。あんた、彼女いるし。
 だからわざと日をずらしたのだと続ける男装の総長の顔は赤い。
 喧嘩を売っているのか?と相手が思うほどにつっけんどんな物言いは照れから来るものだった。
 彼女の性格を十分に把握しているのだろう。必死に怒ったような顔を作る少女を見る男の、 眼差しの奥の光は柔らかい。春の日差しに溶ける雪のような、柔らかな笑みを口元に浮かべ、 男は丁寧に包装された箱を両手で受け取った。
 そのまま胸の前で軽く礼を表すように持ち上げる仕草をすると、いきなり包みを開けにかかる。
 男の意外な行動に、焦ったのはチョコをあげた当の本人だった。
「ちょ、ま、おい!」
 裏返った声が突然、少女の口から発せられた。
 奇妙な音に、店内の客の視線が一斉に男装の少女へと集中する。 無表情に努めていたバーテンさえも手入れの行き届いた細い眉の片方を持ち上げ、朱蘭を振り返った。
「……あ、いや、あの……」
 必死に相手の袖を掴み、しかし口調はしどろもどろで、朱蘭は後見人たる男の顔を覗き込む。
「……あんた、怖くないのか?」
「何がですか?」
 対して鳴神は奇妙なことを聞く、と言いたげに小首を傾げ、 それでも手は休めることなく包みをはがしていた。
「……いや、だから、それ……おれが作ったんだけど……」
 語尾が萎んでいく。
「はい。それはさっき聞きました」
 それがどうしたんです?
 律儀に答えを返した男の手の間から、チョコのコーティングされたオレンジが顔を覗かせている。
 好奇心が疼いたのか、端の客にカクテルを差し出したバーテンがこちらへ近づいてくる。 気のない顔で、しかし目はばっちりと常連客に手渡された箱の中身を確認すると、彼の表情が曇った。
 瞳には客の身を案じる光が宿っている。
 スライスの厚さが少しばかり厚く、またコーティングしたチョコもこちらも厚みがあり、 全体的にボリュームがあった。正直誰の目にもあまり美味しそうには見えない。
「いや……判っていればいいんだけど、さ……」
 彼女自身、どうやっても美味しそうにみえない外見を承知しているためか、むりやり男に勧めようとは思っていなかった。
 しかし、目の前の後見人は躊躇なしにソレを口に運ぼうとしている。 まったく、何の不安もなしに。
 年の功か、年の功なのか??
「殿の血を引いている三代目です。素質はありますし、大丈夫ですよ」
 形は少しいびつですが、ね。
 囁かれた台詞は、彼女以外の耳には届かない。
 親子ほどの年の差のある総長ににっこり微笑んで、鳴神は手にしたスライスオレンジを一口、噛った。
 数秒の間。
 いつの間にか集まっていたカウンターの客、バーテンダーが固唾を飲んで見守る中で、 鳴神源也はゆっくりとオレンジチョコを味わう。
「美味しいですよ」
 なかなかいけますね。
 作り物ではない本物の笑顔で感想を述べた男に、周囲がどよめいた。
 失礼な客だと思いながら、朱蘭は同じ台詞を吐いた人物を思い出していた。


 そういえば、親父殿も同じことを言っていた。
 絶対に大爆笑されるか、硬直するかと思っていた。 けれど先代は一瞬驚いた表情を浮かべ、次に迫力のある鬼瓦のような顔を笑みに変えて、 チョコを受け取った。
『わしの血を引いているお前だ。何も心配はいらんだろう』
 料理の腕はプロにも劣らないと自負している男が、 自らの血を引いている娘の腕も信じて疑わなかった。
 美味しくないはずはないと、豪快に不恰好なチョコを頬張り、満足そうに笑んでいた父。
 外見的にはいかにも不味そうなソレは、あっけなく父親の胃袋におさまっていった。
 嬉しくなかったといえば嘘になるが、それまで示されていたものとはまったく逆の反応に戸惑いが先に立っていた。
 男らしいとか、父親らしいとか、そこで感動しなければならなかったのかもしれない。 しかし彼女は呆然とするだけで、そんな余裕はなく、うまいうまいを連呼した父に、 無感動な「ありがとう」の一言しか返せなかった。


 まったく同じ反応をする男を、不思議な気持ちで見上げた。
 薄い唇の両端を吊り上げ、にっこり笑顔を浮かべている鳴神源也を呆けた顔で見つめる。
「どうかされましたか?」
 美味しかったですよ。
 耳朶を打つ深く低いテノール。
 数分後、意味を理解しているのかしていないのかわからない表情で、 朱蘭はようやく呆けた顔を男から逸らす。
 間を持てず氷が解けてしまったタンブラーの中の液体を飲み干すと、少女は慌てて立ち上がった。
 どうにも居心地が悪い。
「……用件は、これだけだから……おれ、帰る」
 乱暴に置いてしまったグラスの、テーブルと激しくぶつかる音がかすれた声に重なった。
「帰る!」
 ありがとうの一言が言えず、俯いたまま、長い髪で顔を隠し、男装の少女は足早に去っていく。
 それを止めるでもない鳴神の視線が背中を追いかけ、閉じられた扉の前で止まる。

 閉じられた扉のこちら側。
 途絶えた視線にほっとしながら、朱蘭は乱れた髪を手ぐしで整え、深く息を吐き出し、 足早にエレベーターへと向かった。
 緩んだ口元を指の間に隠して。







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