ヤス編



 散らかし放題散らかされた店内を見渡し、ヤスこと安浦は深いため息を吐き出した。
 似合うという主人の一言で定着したスキンヘッドに手をやり、次いで顎の無精ひげを撫で、 片付けの段取りを思案する。
 怪獣が暴れまわったという形容がぴったりと当てはまるほどに、彼の店は荒れていた。
 家捜しや襲撃を受けたというような物騒な類のものではない。 ここまで徹底的に荒らしていったのは彼の最もよく知る人物だった。
 昼間は喫茶店、夜はプールバーとなるヤスの店は、どちらかといえばやはりその筋の者が多く来店する。 だからといって一般の人がまったく来ないのかといえば、そうでもない。 世の中物好きはいるもので、彼の淹れるコーヒーを目当てにやってくる客も少なくないのだ。
 しかし昨日訪れた客層はそのどちらでもなかった。
 見知った顔を先頭に現れたのは、若い女性ばかりの集団。 反抗期真っ只中の少女たちが常とは違う女の子らしい表情で扉を潜ってきたのだ。
 その後ろに続いたのは、どこかの業者らしい男たち。 代わる代わるにやってきては、いくつものダンボールを運びこみ、 黙々とカウンター横のスペースに置いていく。
 咎めることも忘れ、ただ唖然とその光景を眺めていたヤスに、 すまなさそうな表情でことの次第を説明したのは、先頭きって店に現れた人物だった。
「明日のバレンタインのためにチョコを作りたいんだ。だから場所を提供していれ」
 今日一日貸切で! な! 頼む! この通り!
 必死になって拝む黒髪の主人と、 すっかり乙女と化しているヤンキー娘数十名を前に断れるはずもなく、営業を諦め、 一日貸切としたのだが……。
 一日お菓子教室の会場は時間の経過とともに戦場と化していった。
 あちこちでなぜか爆発は起こすわ、ぼやを出すわ、流血するわ、 店内は開始前とはまったく違う様相を呈した。
 結城朱蘭の友人で、菓子作りが得意な富樫まりあが先生役についてはいたが、 大勢にひとりでは手が回らず、結局ヤス以下従業員全員が助っ人に借り出されることになったのだ。
 必死の形相でチョコと格闘する少女たちの手助けをすることには悪い気はしなかった。
 だが、顔のあちこちにチョコをつけたまま満面の笑みを浮かべて完成品を手に店を去っていく 少女たちを見送った彼らを待っていたのはまた新たな一群だった。
 ヤンキー娘たちの恐るべき情報網か、次から次へと新手が現れては、店を汚し去っていく。
 最後の娘を送り出す頃には、精も根も尽きていた。
 足取りの危うい店員たちをひとりひとり送り届け、店に戻った頃にはすでに空は明るくなっていた。
 戻ってはみたものの、徹底的に汚された店内をひとりで片付ける気にもなれず、 放置して帰ったのだが。
 一眠りして戻ってきたヤスは窓から差し込む自然光で浮かび上がった店内に絶句した。
 これでは本日の営業も無理だ。
 即断を下し、再び「臨時休業」の札を入り口に立てかける。
 半ば遠い目を外に向けため息をまたひとつ零すと、店内を振り返った。
 この場合の手当てを請求するべきだろうか……。
 請求する相手を頭に思い浮かべ、モップを手にひとり考え込む。目は店内を見渡しながら。
 と、眉の薄い人相の悪い顔が、ある一点をみつめ、止まる。
 倒れた椅子や、床に転がる調理器具、料理本の類を慎重に避け、向かう先。 彼の聖域たるサイフォンの置かれた横に見慣れない箱があった。
 今朝、ここを出た時にはなかったはずのもの。それとも疲れすぎていて見逃したのか。
 そこだけ綺麗に片付けられた一角に、包装のされていない真っ白な箱が置かれていた。 その上には二つ折りにされた白い紙。
 紙を手に取り、開いた男の目に飛び込んできたのは、角ばった右上がりの文字だった。 適度に大きく見やすい文字は、父親譲りの鋭い眼光を持つ少女のもの。
『突然押しかけて店休ませて本当に悪かった。この借りは必ず返します。
これはヤスの分。味の保証はできないけれど、食べてください。
いつも迷惑かけてすまない。ありがとう。感謝しています。
                           結城朱蘭』
 いつ書いたものなのか。
 いつになく真剣な表情でチョコと格闘していた少女を思い出す。
 泣く子も黙る工藤組13代目総長。 圧倒的な存在感と威圧感で夜のネオン街を歩く女性とはまったく違う顔をしていた少女。 気性の荒い、喧嘩っ早いが仲間思いの不良たちとつるんでいる時とも違う真剣だが温かな眼差し。 まだ幼さの残る、年相応の少女の顔をしていた。
 気持ちのこもった手紙をゆっくりとテーブルに置く。
 味の保証はできないと書いてあるだけに、 ふとみると白い箱の横には思いつくだけ買ってきたのだろう薬の山があった。
 自信の度合いを感じ、箱を開けることをためらったヤスだったが、結局覚悟を決め、 白い蓋へと手を伸ばす。
 恐る恐る箱の内側を覗くと、綺麗なボール型とは言いがたいチョコの塊が1ダースほど入っている。
 外側をココアパウダーでまぶされたチョコを手にとり、ヤスはゆっくりと口に運んだ。
 チョコの甘い香りが、ゆっくりと、荒れ果てた店内に広がっていった。







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